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『本能寺の変 光秀の野望と勝算』 樋口晴彦 (学研新書)

本能寺の変 光秀の野望と勝算

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 本能寺の変から山崎の合戦にいたる経過を良質の史料を用いて再構成した本である。最初はトンデモ説に反駁する本を書こうとしたが、藤本正行鈴木眞哉信長は謀略で殺されたのか』と谷口克広『検証本能寺の変』に尽くされているので、ドキュメント風の書き方に改めたということである。

 この方針転換は成功していて、本能寺の変をはさんだおおよそ三週間の日本各地の状況を鳥瞰する本書が出来あがった。こういう重宝な本が廉価な新書で入手できるのはありがたい。

 序章では光秀の人物像をとりあげている。小説やTVドラマ、映画、最近はゲームによって紋切型の光秀像――伝統第一主義の神経質で小心なガリ勉タイプ――がすっかり定着した観があるが、著者はそれをリセットし、伝統的な権威をものともしない、近代的で果断で独裁的ともいえる光秀像を描きだしている。

 たとえば、叡山焼討である。司馬遼太郎の『国盗物語』には光秀が信長に焼討を思いとどまらせようと必死に諌める条があり、類似の場面はTVなどでくりかえし映像化されてきたが、史実は逆で、叡山周辺の土豪の懐柔に積極的に動いていたことを示す書状が残っている。焼討後、信長は光秀を志賀郡五万石の大名に抜擢しているが、これは光秀が叡山攻めの最大の功労者だったことを示すものだろう。光秀は叡山を扼する坂本に築城して延暦寺関連の荘園を容赦なく接収しており、後に無関係な荘園まで押領したと朝廷から苦情が来ている。

 坂本城が交通の要路に城下町と一体化して築かれた城で、安土城やその後の近世城郭の手本となったという指摘や、検地の断行と知行高にもとづく軍役の再編の先鞭をつけたのが光秀だったという指摘も重要である。信長の天才的な施策のいくつかは光秀がはじめたものだった。高柳氏が指摘したように、信長と光秀は似た者同士で馬が合ったのである。

 変後の光秀の動きについては無駄が多いとか、時間を空費したとか、厳しい見方が多いが、著者は京都で掃討戦に時間をかけ信長の馬廻衆を全滅させた点を重く見ている。馬廻衆は単なる親衛隊ではなく官僚機構であり、織田政権の頭脳だった。馬廻衆の全滅で織田政権は脳死状態におちいったわけである。

 琵琶湖畔の城郭群をすべておさえた点も北陸の柴田勢を仮想敵とした万全の備えだったと評価している。柴田勝家は6月16日には北の庄城にもどっており、もし秀吉が毛利に釘付けになっていたら、柴田勢と明智勢の間で決戦がおこなわれていたはずである。琵琶湖の制圧を喫緊の課題と考えたのは当然だろう。

 さて、秀吉軍の中国大返しである。あまりにもうまくいきすぎた上に本能寺の変の最大の受益者が秀吉だったので、陰謀説のかっこうの根拠となっているが、著者は強行軍を可能にした条件として二つの要素をあげている。第一に信長本隊のために街道沿いに手配されていた大量の兵糧、人足、休息施設。第二にその手配を担当していた奉行の堀秀政が秀吉についたこと。著者は堀秀政黒田長政とともに参謀として秀吉の天下取りを支えたとしている。

 本書は大筋においては通説を踏襲しているが、大胆な新説がないわけではない。それは光秀は秀吉が協力者になってくれるものと一方的に片想いしていたという見方である。秀吉陰謀説のように事前に連絡があったとするわけではないが、外様でありながら異例の出世をとげた同志、たがいに通ずるものがあったというわけだ。著者は秀吉の妻や生母が長浜城から逃亡するのを光秀が黙認した可能性にふれ、さらには秀吉に変の第一報を知らせたのは光秀自身だったという見方まで披瀝している。

 光秀の動機の推理は本書の主要テーマではないが、本能寺の変をあつかう以上、動機にふれずにすますわけにはいかない。

 怨恨説でおなじみの家康饗応が決して名誉な仕事ではなかったという指摘はコロンブスの卵だった。後世の人間は家康が天下をとったことを知っているので饗応役からはずされたことを大変な屈辱と錯覚するが、この時期の家康は同盟者とは名ばかりで、実質的には織田軍の東海方面軍司令官にすぎなくなっていた。家康の相手をしているより、毛利攻めで手柄をたてたほうが得なのである。

 意外なのは近年最有力視されている長宗我部説をとっていないことだ。長宗我部の苦境を「天下の情勢が見えない田舎大名が、光秀の忠告を聴かずに自滅の道を選んだというだけ」と見きり、長女の嫁ぎ先だった荒木村重ですら攻めた光秀がずっと縁の薄い長宗我部家のために謀叛に踏み切るなどありえないと断定している。

 長宗我部外交からはずされて面子を失ったという見方に対しては、四国平定などは信孝程度でつとまる小事で、毛利攻めとその後に控えている九州征服の方がはるかにリターンが大きいとしている。

 著者がとるのは単独野望説だが、著者も賛同する光秀六七歳説との整合性の点でどうだろうか。当時の六七歳は今の八〇歳くらいにあたるだろう。八〇歳になって天下とりは無理があるのではないか。

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