『快傑デカルト―哲学風雲録』 ダヴィデンコ (工作舎)
フランスのジャーナリスト、ディミトリ・ダヴィデンコが書いたデカルトの伝記小説で、原題を直訳すれば『醜聞の人デカルト』である。
読みはじめて啞然とした。一般に流布しているデカルト像とあまりにも違うのだ。語り口も講談調でまさに快傑デカルト、哲学風雲録である。
一般的なデカルト像というと裕福な法服貴族の次男坊に生まれるが、生来病弱だったために朝寝坊の習慣をつづける。名門校を出てから当時の貴族のならわしで軍隊にはいり、戦闘義務のない無給の将校となって箔をつけ、母親の財産を相続してからはオランダに移住し、孤独のうちに哲学の研究をつづける。スウェーデン女王の招聘で53歳にしてはじめて宮仕えをするが、軍隊時代も含めてずっと朝寝坊をつづけていた身にとって朝5時から宮殿に伺候しなければならない生活がこたえたのか半年で急死する、といったところか。
ところがダヴィデンコの描くデカルトは貴族ではない。法服貴族になるには三代つづけて高級官僚にならなければならないが、デカルト家でそのような地位についたのはデカルトの父がはじめで、貴族に列せられるのはデカルトの没後のことだというのだ。
若きデカルトはそれでは格好がつかないので、祖母から相続した土地についていた称号をひっぱりだしてルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗り、緑づくめの衣装でパリの街にくりだす。たまたまペロン枢機卿という生臭坊主が時めいていたので、その縁者のような顔をして女をあさりまくる。
軍隊にはいった動機も貴族の御曹司の箔づけなどではなかった。デカルトは高級官僚になるための教育を受ける。日本でいえば鹿児島ラサールから東大法学部に相当するエリートコースであるが、父親がやっているのが魔女裁判の片棒かつぎだと知って官僚コースを拒否、母親の財産を相続できる26歳になるまで食いつなぐためにフランス人傭兵隊に入隊する。
傭兵隊には食いつめた貴族の次男坊、三男坊が集まっていた。給料は出なかったが衣食住は保証され、城市を陥落させれば三日間略奪御免となるので、略奪品を収入にしていた。デカルトも略奪と博打で荒くれた生活を送るが、ドイツで薔薇十字団にはいりフランスの代表に選ばれる。
26歳になり相続の資格のできたデカルトは母親の遺産をさっさと売り払い、パリに出て母方の親戚のル・ヴァスール邸に居候する。ル・ヴァスール邸には学者や文人が出入りしていたので、彼らに薔薇十字団の教えを広め、望遠鏡の製作で一山当てようともくろむが、リシュリュー枢機卿に睨まれてフランスにいられなくなる。リシュリュー没後は聖秘蹟会がデカルトを執拗に迫害するだろう。
オランダでは母親の遺産を売り払った金で財テクを試みるが、いつも手元不如意で薔薇十字団の仲間の家を居候してまわる。デカルトの困窮を救うためにパリの薔薇十字団員が国王の年金がおりるように骨を折ってくれるが、聖秘蹟会の横槍で空手形に終る。
クリスティーナ女王の誘いを受け入れたのも食うに困ったからだ。宮廷人になるのに従僕なしでは格好がつかないと、親切な友人が給料自分持ちで従僕をつけてくれたが、いざストックホルムに行ってみると精力絶倫の女王に毎朝精を吸いとられ寿命を縮める……という具合である。
デカルト家はデカルト生前は貴族ではなかったこと、デカルトがルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗っていたこと(ただし「ペロンの騎士」ではなく「ペロンの領主」と訳すべきだろう)、緑色の衣服を好んでいたことはもっとも権威ある伝記とされるロディス=レヴィスの『デカルト伝』で確認したところ事実だった。
となると他の話はどうなのか気になるところだが、結論をいうとフィクションだった。デカルトが食いつめていた事実はなかったし、父親に見捨てられていたわけでもない。
薔薇十字団については『デカルトの暗号手稿』によると関係はあったという見方が最近は有力なようである。しかしル・ヴァスール邸に集まった知識人が団員などということはありえないし、オランダ各地に団員がいたわけでもない。薔薇十字団はいろいろ尾鰭がついて話が大袈裟になっているが、実際はごく小さな集まりだったようである。
最初から小説と断っているものに史実と違うと言ってもしょうがないが、なまじ新事実をとりいれているだけに始末が悪い。デカルトに関する事実が十分知られていない状況でこういう面白すぎる本が翻訳されるのはいかがなものだろう。