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『フーコーの振り子』 アクゼル (早川書房)

フーコーの振り子

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 地動説か天動説かという論争はニュートン万有引力の発見で決着がついたと思いこんでいたが、そうではなかった。実験で証明されていないとして信じない人がすくなからずいたのだ。

 地球の自転のまぎれもない証拠をつきつけたのがフーコーの振り子と呼ばれるシンプルな実験だった。長い振り子を揺らしていると、振動面がだんだんずれていく。ずれる速度は緯度によって決る。北極点か南極点なら24時間だが、それ以外の場所では緯度をθとすると

24 / sinθ

となる。これを正弦則という。

 振り子の実験と正弦則を考えだしたのはレオン・フーコーである。ジャイロスコープを発明したり、光の速度を当時としては高精度で測定するのに成功したり、博士号に値する成果をいくつもあげているが、アカデミックな経歴を持たなかったために学会からは無視されつづけた。本書はレオン・フーコーと振り子の実験を軸に19世紀前半のフランス科学界を描いた本である。

 フーコーが数々の業績をあげることができたのは創意工夫の才能と機械技術の知識だけでなく、手先の器用さに恵まれていたからだ。職人の生まれかなと思ったが、そうではなかった。フーコーの父親は出版業で成功した人で、フーコーはパリの名門校コレージュ・スタニスラスから医学校に進んでいる。父親は早逝したが、フーコーの没後、母親が資金を出してフーコーの全集を刊行しているから相当な財産家だったと思われる。

 母親がフーコーを医学校にいれたのは手先が器用で優秀な外科医になると期待したからだが、フーコーは血を見ると気分が悪くなった。患者の苦しむ姿にも耐えられず、医学を断念せざるをえなくなる。

 医学校は中退したものの、当時最先端技術だった写真術に通じているのを医学校時代にフーコーの才能に注目した顕微鏡学のアルフレッド・ドネに見こまれ、共著で『顕微鏡学アトラス』を出版した。

 共著とはいっても、学会では単なる実験助手のあつかいだった。ある時期までアカデミズムでは「経験主義者」というレッテルは最大の罵倒語だったが、フーコーはまさに「経験主義者」だった。致命的なのは数学教育を受けていない点だった。18世紀まではラテン語ができることが学者の条件だったが、19世紀では数学が科学者の必須条件になっていた。

 フーコーはドネの推挙でデバ紙の科学記者になるが(同僚に作曲家のベルリオーズがいた)、科学記者としてみごとに職責をはたしたものの、かえって何でも屋のアマチュア科学者という評価を決定的にしてしまった。

 このままだったら一介の科学ジャーナリストで終るところだったが、パリを通る子午線の測定で実績をあげたフランソワ・アラゴーが『顕微鏡アトラス』の写真に驚嘆し、フーコー光速度測定装置の製作を依頼したことから新たな道が開けた。フーコーはこの仕事をみごとにやりとげるが、学会では依然として実験助手のあつかいだった。

 振り子の実験を思いついたのは光速度測定装置の工夫をしていた時だった。彼はまず自宅の地下室で2mの長さの振り子で予備実験をおこない、次いでアラゴーのはらかいで1851年2月3日、パリ天文台の高い天井のメリディアン・ホールで11mの長さの振り子で本実験をおこなった。実験はみごとに成功したが、一介の実験助手の成功は嫉妬を呼びフーコーはいよいよ孤立することになった。

 ここで手をさしのべたのが共和国大統領で、まもなくクーデタで帝位につくことになるナポレオン三世である。ナポレオン三世はありあまる才能をもちながら不遇なフーコーに自分自身の数奇な生いたちを重ねたのか、フーコーの最大の後援者となった(それがまた嫉妬に油を注いだ)。

 ナポレオン三世は悪いイメージしかもっていなかったが、本書ではフランスの近代化をなしとげた名君として描かれている。フーコーの全集の出版もナポレオン三世の肝煎りだったが、普仏戦争の敗北で退位したために母親が自前で出さなければならなくなった。

 学界や政界のごたごたもおもしろいが、フーコーの振り子の理論的解明は依然として未解決のままだという指摘には目を見張った。フーコー自身は振り子は絶対空間に対して静止していると考えていたが、相対性の原理からいって絶対空間を規準にした議論はできず、問題は一気に難しくなる。著者はマッハとアインシュタインを持ちだしているが、フーコーの振り子の振動面がどんな座標系に属しているかは結論が出ていないそうである。

 相対性をいいだしたら地動説の勝利も怪しくなるかもしれない。シンプルな実験ほど深い闇を宿している。

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