書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『人もいない春』西村賢太(角川書店)

人もいない春

→紀伊國屋書店で購入

「ふにゃふにゃ期の効用」

 西村賢太の「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」(『新潮』2010年11月号)は川端康成賞の候補に選ばれた際の顛末を、原稿の横流しやら約束のすっぽかしやらといった編集者との付き合いを中心に描いてほとんど漫画ちっくなばかりの嘘みたいな、しかし、ほんとの話(←たぶん)である。かつて西村の十八番だった、つかの間の小さな幸福が瓦解し同棲相手の女に罵詈雑言や暴力を浴びせかけたあげく自滅して終わるという、それはそれで洗練の域に達していた展開のパターンとは違い、古本屋でたまたま見つけた堀木克三という今では誰も聞いたこともない昭和初期の文芸評論家の自費出版論集を、しみじみ軽蔑しながら読み進めて佳境に入るというあたりに、「おっ」というような新境地が感じられる作品なのである。

 こういうものを読むと、西村賢太もいよいよ変わっていくのか?なんて思う。『人もいない春』はこの二年ほどの間に『野生時代』に掲載された作品を集めたもので、途中でこれまたひと悶着あったらしく妙に間の空いた期間を挟んではいるものの、これらの短編をつづけて読めば近年の動向が見えてくるかもと考えたりする。期待通りであった。

 とにかく西村作品は言葉の臨場感のようなものが強烈で、はじめから最後まで文字通りの〝賢太漬け〟、一字一句漏らさずその文言を浴びるようにして読むことになる。しかも、物語の展開上も明と暗の移行がたいへん明瞭で、「が、あとから思えばそんなアルバムの閲覧なぞ、彼女の意外な魅力にふれたその時点でやめておけば幸せだったのである」というようなことさらな誘導とともに、まるでジェットコースターの頂点にのぼりつつあるときの心持ちで「あ、あ、あ、もうすぐ……」という、懐かしい滅亡感に身を任せるのが読む者の習いともなる。

 しかし、展開とかプロットを西村の小説に読むことにどれほどの意味があるのかは疑問である。ためしに『人もいない春』の六つの作品を筆者が勝手に採点した結果は以下のような具合。

◎「人もいない春」
O「二十三夜」
×「悪夢 ― 或いは「閉鎖されたレストランの話」
◎「乞食の糧途」
◎「赤い脳漿」
O「昼寝る」

 ○やら×やらいろいろつけてみたが、実はこれらの短編に共通するのは、一方では甘美なほどにわかりやすい〝崩壊〟と〝滅亡〟の刻印であるけれど、他方で、いずれも最後はふにゃふにゃと腰砕けのようにして逃げるように終わる、つまり、いかにもだらしのない結末になっている点でもある。

〝ふにゃふにゃ〟な結末とは、いかにも私小説的とも自然主義的とも見えるかもしれない。意味なんかありゃしない!と開き直っている。しかし、これは主人公がきわめて〝性的な人間〟として描かかれていることとも連動しているのである。この人の場合、「女性と女体を欲す激しい慾望の波には或る不定の周期がある」のだそうだが、そんなのは誰だってそうなのかもしれない。しかし、西村は――というかこれらの作品の主人公ということになっている北町貫多の場合は――それが人並みはずれていて、ほとんど神話的なのである。

この周期が明けた直後の彼は、それまでの狂おしい肉慾の衝動は気のせいであったかと思う程、何やら急に憑き物が落ちたようになるのが常だった。そしてその期間は、短いときで数週間、長ければあれで半年ぐらい続くこともあるのだが、そんなときの貫多は自分が永年思い描く理想の、きわめて普通の女性とひどくプラトニックな恋愛をしたくなる。(37-38)

『人もいない春』の各作品で鍵となるのは、この「きわめて普通の女性とひどくプラトニックな恋愛をしたくなる」気分なのである。「プラトニックな恋愛」というとまるで清純派のようで聞こえはいいのだが、これはこの獣のような主人公のいわば〝ふにゃふにゃ〟期。そういう〝ふにゃふにゃ〟期について、ひょっとするとこの作家は以前よりも我慢強く書くようになったのかもしれないという印象を筆者は持った。

 西村賢太の小説を読むとき、私たちは物語を読むわけではないのだ。ちょっと慣れてくると、そんなものを期待してはいけないことはわかってくる。では、物語のかわりに〝ありのままの世界〟とか〝個人を越えた普遍的な真理〟があるのかというと――ないわけでもないが――私たちの実感としてはたぶん「そんなものはどうでもいい!」のである。

 ではそこにはいったい何があるのかというと、とにかく「周期」なのである。「その期間は、短いときで数週間、長ければあれで半年ぐらい続くこともある」と語り手が臆面もなく明かす、その繰り返し。しかし、これまで西村はその周期のうちの、〝山〟の部分を書くのに忙しかった。それが、かくも弱く、やさしく、だらしなく小説を終えられるようになったということは、彼が小説を通じていちいち〝自分宣言〟のようなものをしなくても済むようになったということではないかと思うのである。「オレはこのようにオレである」と物語に仕立て上げて屹立しなくても済むようになったのではないか。

 それだけ作家が、自身の〝周期〟について自覚的となった証拠なのだろう。物語というものが、たまたま始まったりたまたま終わったりするものにすぎない、そんな自分の「周期」の声に、作家がより敏感に耳を傾けるようになった。

 そして、こうして〝物語であること〟の拘束から自由になってみればこそ、本筋とは無関係とも思える描写にほとんど悪のりのようにしてのめりこむことが、以前にも増してできるようになる。先ほど◎をつけた三つはいずれも、「まさか……たったこれだけのネタでここまで行くか」というほど、一見、無意味とも思える細部に熱気をこもらせた作品ばかりである。「人もいない春」では、小学生時代に日本ハムファンだったという主人公がときをへて久しぶりにその試合を観戦して、がらがらの球場で牧歌的に飲み物を売り歩く少年と少女に嫉妬し妄想にかられる描写がある。

貫多はそんな二人の姿を試合から目を離してかたみに眺め、しみじみ羨ましくならなかった。きっと彼女らは昼は普通に学校へゆき、週に一回程度、夕方以降の数時間をそこで小遣い稼ぎしているのであろう。で、このバイト先でごく自然なかたちで知り合うようになった二人はすっかり意気投合した上で、すでにいろいろとうれしいことにもなっているのであろう。すでにいろいろと、気持ちのよいことも行っているのであろう。彼女らは、時や場所に関係なく、さまざまなシチュエーションの中で闊達に、自らの若さを、青春を、十全に謳歌しているのに違いない。貫多はそれが心底から羨ましく、男の方は半殺しの目に遭わせた上でスタンドの外に投げ落とし、女の方は尻の穴まで犯してやりたい程に(したことはないのだが)妬ましくもあったが、しかしこれは妬んでも羨んでも、結句は自分の生活や歪んだ根性が一層惨めったらしく思われるだけの話だった。(23)

ここは貫多がやや鬱屈した気持ちで日ハムの試合を観戦しているというだけの場面なのだが、およそたいしたことの起きていない状況で、これだけ何かを起こしてしまうのはすごいことだ。これなら、同居の女性に罵詈雑言を浴びせたり、平手打ちをくらわせたりする必要もない。

「乞食の糧途」でもバイト先の運送会社の同僚の運転が下手だとか、「赤い脳漿」でも同居する秋恵の小学生時代の写真が醜かったといった、実に些末なネタで作品に信じられないほどの盛り上がりが生まれるが、そうした部分を読むにつけつくづく思うのは、今まであれだけ「オレはオレだ」と叫び続けざるをえなかった主人公の態度に、何かが加わったのかもしれないということだ。自分のことを言うのに手一杯、自分とのかかわりでしか世界を書くつもりがなかったのが、目の前にいる自分ではない人間にけっこう興味を持ちはじめているようにも見える。だからこそ些細に見えるような材料なのに、いったいどこまでいくのだろうかという描写が生まれる。〝ふにゃふにゃ期〟の効用だ。

 もちろん、いずれの作品でも私たちを引きこむその牽引力の背後にあるのは語り手の例の「周期」の威力である。結局は、自分の生理の勢いで語る人で北町貫多はあるらしい。しかし、ならば、なおさらすごい。西村賢太には物語など必要ないということである。とにかく彼に命があり、あの「周期」が訪れつづける限り、言葉が急にインフレしつつ昂揚し、あることないことひっくるめて〝山〟をつくって(その思いがけない加速感は、好調時の蓮實重彦を想い出させるのだが)さらなる至高の瞬間を創出するということなのだ。

 小説というのは一生懸命構築した言葉の楼閣を、「よし」という時点に達した瞬間に背負い投げのようにひっくり返し、振り出しに戻すことで成立するものだと思う。つくづく不思議な言葉のジャンルである。そういう意味では西村の主人公はまさに典型的に小説的である。しかし、そんなパタンだけでは何かが足りない。西村の強みは「周期」の山と谷との間を、目の回るような速度で行き来する生命力のようなものである。そういう苛烈な「周期」を実際に生きるのはさぞかしたいへんだろうとも思うが、「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」や『人もいない春』でのように〝谷〟の部分までもが小説の中に生きてくるとなるなら、「変わったな」どころではすまない何かが今後に期待できるのではないかと思う次第である。

→紀伊國屋書店で購入