『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』 エーコ&カリエール (阪急コミュニケーションズ)
記号学者ウンベルト・エーコと脚本家ジャン=クロード・カリエールが本に関する蘊蓄をかたむけた対談本である。
ジャン=クロード・カリエールについてはピーター・ブルック一座の座付作者くらいの知識しかなかったが、IMDBを見ると『ブリキの太鼓』、『存在の耐えられない軽さ』、『マックス、モン・アムール』、『シラノ・ド・ベルジュラック』、『カサノヴァ最後の恋』といった名作がずらりとならんでいる。ブニュエルの晩年の傑作群、『小間使の日記』、『昼顔』、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『欲望のあいまいな対象』も彼の脚本だった。昨年公開された『トスカーナの贋作』には役者として出演しており演出作品も多い。本も書いていて『万国奇人博覧館』と『珍説愚説辞典』は邦訳されている。ボルヘスを自宅に招いたこともあるというから相当な大物である。
本書は邦題からすると電子書籍に対抗して紙の本を擁護した本のような印象を受けるが、そういう内容ではない。エーコもカリエールも電子本か紙の本かといった二者択一では考えていない。そもそも二人が話題にしている紙の本とはコレクションの対象になるような稀覯書であって、電子書籍とは最初から接点がないのだ。
稀覯書中心だから蔵書自慢が多くなるが、レベルが高いので自慢というより文化論になっている。グーテンベルクの最初の聖書から1500年12月31日までの50年間に刊行された本を
コレクターなら誰しも不思議な偶然を体験したことがあると思うが、この二人の語る偶然はゴミ箱からパスカル自身が作った12台の計算機のうちの1台が見つかったとか、カタルーニャ語最初の印刷物を探していたバルセロナの古書商が表紙の厚紙の中から原本を発見したとか凄すぎる。本の神様はやはりいるのだと思った。
バロックに対する偏愛でも二人は共通している。カリエールはボワローら古典主義者によって葬り去られた17世紀フランスのバロック詩人(どれも初めて聞く名前だ)を熱っぽく語り、『シラノ・ド・ベルジュラック』ではロクサーヌがバロック詩人の愛読者だという設定にし、ロクサーヌ役のアンヌ・ブロシェにバロック詩人を読ませたところ、彼女もファンになってアヴィニョン演劇祭で朗読会を開くにいたったという。エーコはエーコでイタリアの政治的頽廃期に花開いたバロック建築の真価が知られていないと悲憤慷慨し、『前日島』はバロック顕彰のために書いたと打ち明けている。
カリエールは妻がイラン人ということもあってペルシャ文化とイスラム文化に造詣が深く、深い話がいろいろ出てくる。サハラ砂漠の南にあるトンブクトゥには中世以来の大きな図書館があり、賢者に教えを受けに来る学生は学費代わりに本を持参して図書館に納めたとか、10世紀にバグダッドで活躍したアン=ナディームという装釘家は自分が手がけた本の梗概を残していて、その梗概でしか知られていない本がたくさんあるそうである。
内輪の話も出てくる。『醜の歴史』にセリーヌの『虫けらどもをひねりつぶせ』の抜粋を載せたかった、セリーヌの未亡人がどうしても許可してくれなかったので載せられなかった。ネット上のナチス系サイトでは全文が読めるのに拒否して何になるのだと憤慨している。カリエールはブニュエルの『銀河』で空飛ぶ円盤から緑色の宇宙人が十字架をもって出てくる場面を書いたが、予算の関係でボツになってしまった。『昼顔』の箱の中味の話は笑える。
電子書籍関係の話題はわずかしかないが、インターネット関連の話を紹介しよう。レポートにWWWの内容をそのまま貼りつける不心得者はヨーロッパの大学でも問題になっているそうだが、エーコはこういう解決法を提案している。
私が教師たちに助言するのは、宿題を出すとき、調査の仕方に条件をつけろということです。すなわち、与えられたテーマ一つに対して、出所の違う一〇の情報を集め、それらを比べあわせてみるということです。インターネットに対する批評感覚を鍛え、何でもかんでも鵜呑みにしないことを覚える鍛錬になります。
これはいいお題である。今度出題してみようと思う。