『グーテンベルクの時代―印刷術が変えた世界』 ジョン・マン (原書房)
『人類最高の発明アルファベット』を書いたジョン・マンによるグーテンベルクの伝記であるが、おそらく決定版といっていいだろう。富田修二氏の『グーテンベルク聖書の行方』の第二章の伝記と8ページの年譜、高宮利行氏の『グーテンベルクの謎』の略伝部分をあわせ読めば生涯のあらましはたどれるが、わたしのように中世ドイツの知識のない者はあちこちでつまづいく。
グーテンベルク家は貴族だったが、われらがヨーハンは母方の祖父が貴族でなかったために貨幣鋳造のギルドにはいれず、その屈辱が発明の原動力となったとされている。しかし貴族がギルドにはいるなどということがあったのだろうか?
マインツでは貴族と市民の抗争が激化し、市民が虐待の報復として貴族の邸を破壊したのでグーテンベルク家のマインツから避難しなければならなくなったとされているが、貴族が市民を「虐待」とはどういうことか?
グーテンベルク家のもともとの姓はゲンスフライシュだったが、マインツに「グーテンベルク」という名の邸を手にいれたので、別の家系から手に入れた「ラーデン」とあわせてゲンスフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクと称するようになり、略してグーテンベルクと呼ばれるようになったとある。するとゲンスフライシュとグーテンベルクは日本の姓と苗字のような関係なのか?
われらがヨーハンの聖書刊行プロジェクトに事業家フストが出資したとあるが、15世紀に「事業家」がいたのだろうか? そもそもフストとは何者なのか?
印刷業の中心都市となったマインツは1462年にアドルフ二世による劫掠を受け、それを機に職人が各地に散って印刷術が普及したとされるが、このアドルフ二世は3年後われらがヨーハンを宮廷従者に任じ年金をあたえている。アドルフ二世というから王様なのだろうが、どこの王様なのか?
ほかにも理解に苦しむ記述がたくさんあり、わたしのように中世史を知らない人間は考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる。
こうした疑問は本書を読んでほとんど氷解した。ジョン・マンは歴史作家らしく15世紀のドイツ社会とマインツを細密に描くことからはじめる。グーテンベルクに関する史料はほとんどが裁判記録だが、裁判記録を正確に読みとくためには遠回りのようでも搦手からの接近が必要なのだ。背景がはっきり見えてくればグーテンベルクの姿もおのずと明確となる。
まずわれらがヨーハンの三つの名乗り、ゲンスフライシュ、ラーデン、グーテンベルクだが、すべて邸の名称だった。姓か苗字かということなら、三つとも苗字に相当する。
この時代は由緒正しい貴族以外のファミリー・ネイムは確立しておらず、所有する領地や邸の名称がファミリー・ネイムの代わりをした。日本の苗字のようなものだが、苗字と異なるのは、領地や邸を手離したなら血統的には何の関係もない新しい所有者がその名乗りを引き継いだことだ。契約によっては前の所有者がひきつづき元の名乗りを使いつづけることもなくはなかったが、原則としてはそうである(時代はくだるが、デカルトはペロンの領地を手離した後もルネ・デカルト・デュ・ペロンと名乗りつづけた)。所有する領地や邸が増えれば、ゲンスフライシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルクのように名乗りが長くなっていった。ある一族の名乗りが途中で変わったり、まったく別の一族が同一の名乗りを用いていたりすることが普通にあったのである。
グーテンベルク家は富田氏は「貴族」、高宮氏は「都市貴族」としているが、ジョン・マンは「有力者」と呼んでいる。マインツの地主層百家族ほどがこの「有力者」にあたり、本人たちは「
称号の一つに「造幣所勲爵士」があった。マインツ市は皇帝から貨幣の鋳造を認められていたが、貨幣の鋳造に係わるには父方母方両方の祖父母がすべて「有力者」の出身でなければならないという制約があった。われらがヨーハンは母方の祖父が内乱で没落した旧家の出だったので「造幣所勲爵士」にはなれなかった。
「有力者」は市に一時金を支払うことで、毎年その金額の5%を受けとることができるという年金の権利をもっていた。これがマインツ市の財政を逼迫させた。マインツ市を実質的に支える職人層にとって、免税特権を楯に税金を払わず、過去の一時金の対価だけを要求しつづける「有力者」はマインツ市にとりついた寄生虫だった。職人層を束ねるギルドと「有力者」は階級的に対立していたのだ。ギルドとの対立からグーテンベルク家がマインツを追われた頃、マインツ市の収入の40%は「有力者」への年金に消えていたという。
われらがヨーハンの兄は「有力者」の特権を放棄してマインツにもどり市の幹部になるが、ヨーハンの方は青年時代を他の都市を遍歴してすごしたようだ。長くいたのはストラスブールで金細工師として生計を立てていたらしいが、戦争の危険が迫ったためかストラスブールを離れ、マインツにもどってくる。
マインツにもどったわれらがヨーハンはグーテンベルク邸に居を構え、親戚から借金して活版印刷をはじめていたが、端物の印刷で技術を磨くという段階だったようだ。
われらがヨーハンは50歳を越えてからいよいよ聖書の印刷に乗りだすが、出資してくれたのはヨーハン・フストという鍛冶屋ギルドの親方だった。フストは写本や木版本の商いも手がけており、活版印刷という新しい技術に関心があったのだろう。
フストが出資した額は1600グルデン(現在の価値にして2500万円)で、裁判では全額を借金して用立てたと証言しているが、ジョン・マンは借金したというのは利息を正当化するための口実で、実際はかなりの部分が自己資金ではなかったかと推測している。
聖書の完成直前フストが訴訟を起こし、われらがヨーハンから刷り上がったばかりの42行聖書と印刷工房をとりあげたのは御存知の通りだ。フストはヨーハンの弟子だったペーター・シェッファーに工房をまかせ後に娘婿とするが、ジョン・マンによるとシェッファーはもともとフストの養子であり、フストの命令で工房にはいったのだという。
さてアドルフ二世だが、アドルフ・フォン・ナッサウといい、マインツ大司教だった。マインツ大司教が自分の支配する街を略奪するとはどういうことか。
これにはローマ教皇がらみのややこしい事情があった。マインツ大司教は公爵と選挙候を兼ね、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式を司るという栄職だったが、聖職なので世襲はできず選挙で選ばれた。
1459年ディータ・フォン・イゼンブルクは教皇ピウス二世の支持を受け、アドルフ・フォン・ナッサウに一票差で勝ち、マインツ大司教位につくが、運上金問題で教皇と揉め、ディータは選帝侯会議を召集して教皇のドイツ干渉を非難するようになる。教皇はディータを退位させ、対抗馬だったアドルフ・フォン・ナッサウを新たなマインツ大司教に指名する。マインツは皇帝が推すディータ軍と教皇が推すアドルフ軍が戦う戦場と化したのである。
この時史上初の活版印刷によるプロパガンダ合戦がおこなわれる。ディータ側のプロパガンダを印刷したのはわれらがヨーハン、アドルフ側の印刷を請け負ったのはヨーハンから聖書と印刷工場を奪ったフストとシェッファーだった。
戦いはアドルフ側の勝利で終わる。マインツはアドルフ軍の略奪にまかされ、アドルフ側についた市民もすべてを奪われて市外に放逐される。
アドルフ・フォン・ナッサウは正式にマインツ大司教に就任するが、彼は敵方についたわれらがヨーハンを赦免したばかりか、勲爵士の位と年金をあたえた。なぜこんなに手厚く遇したのか。活版印刷の発明者を顕彰するためだったのだろうか。
本書を読んでグーテンベルクがはじめて血のかよった人間としてたちあらわれてきた。グーテンベルクに近づくには本書の分厚い歴史叙述が不可欠なのである。
なお、日本では神秘主義的な思想家として知られるニコラウス・クザーヌスも重要な人物として登場するが、ジョン・マンはクザーヌスを権謀術数をめぐらすしたたかな教会政治家として描きだしており、こういう面があったのかと眼を開かれた。クザーヌスも面白そうである。