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『グーテンベルクの謎―活字メディアの誕生とその後』 高宮利行 (岩波書店)

グーテンベルクの謎―活字メディアの誕生とその後

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 丸善が1987年に落札したグーテンベルク聖書は1996年に慶應義塾大学に売却された。ドヒニー本は現在では慶應本と呼ばれている。慶應義塾大学は人類の宝を単に保存するだけではなく、デジタル化して広く世界に公開する決定をし、HUMIプロジェクトを立ちあげた。HUMIの技術はヨーロッパで高く評価され、ケンブリッジ大学所蔵本やポーランド政府所蔵本(『さまよえるグーテンベルク聖書』参照)など7セットのグーテンベルク聖書のデジタル化をおこなっているという(慶應本とケンブリッジ本はHUMIサイトで公開されている)。

 本書はHUMIプロジェクトを推進してきた高宮利行氏が岩波書店のPR誌「図書」に一年にわたって連載したエッセイをまとめたもので、グーテンベルク聖書のみならずグーテンベルクの生涯や活版印刷誕生をめぐる論争、写本時代の出版事情、揺籃期本インキュナブラで活躍した初期出版人を紹介している。

 写本は修道院の写字室で修道僧がこつこつ作っていたと思いこんでいたが、それは11世紀までの話で12世紀以降は写本製作の場は都市に移り専門の書籍商があらわれるようになる。

 おりしもヨーロッパ各地に大学が簇生するが、大学は教科書を確保するために書籍商というか貸本業者を指定し、学生は大学の認めた業者から写本を借りて自分で書き写した。写本の正確性を期すために大学は休暇中に指定業者の保管する写本を検査し、誤りがあったら業者の負担で写本を作り直させた。写本は未製本でペチアにわけて貸し出されたのでペチア方式という。ペチア方式はペストの大流行を期に廃れ、14世紀以降は写本を専門的に生産する写本工房が主役になっていった。

 意外だったのはヨーロッパで木版印刷がはじまったのは活版印刷の誕生するわずか半世紀前、1500年代だということだ。しかも木版印刷はなかなか広まらず、製作が盛んになるのは1455年から1510年にかけてで揺籃期本の時期と重なるのである。

 今日の常識からするとまず木版本の流行があって、木版を効率化するために活版が発明されたと考えがちだが(そのような思いこみから木版印刷が盛んだったオランダで活版印刷が発明されたと主張した学者もいた)、実際は木版本は活版本の廉価版としてようやく認知され、読者に受けいれられるようになったらしいのである。

 グーテンベルクの生涯については富田修二氏の『グーテンベルク聖書の行方』の方が詳しいし、一冊の本を読む気があるならジョン・マンの『グーテンベルクの時代』という好著がある。マンはニコラウス・クザーヌスグーテンベルクが接触していた可能性にふれていたが、高宮氏もその可能性に言及している。短い中に多くの内容が語られており、富田氏の本よりも情報が新しいが、この長さで15世紀のドイツ社会の説明までは無理で、現在の感覚で読むとひっかかる箇所がすくなくない。そうした疑問点に解決をつけたい人はマンの『グーテンベルクの時代』を読むといい。

 初期出版人ではヴェネツィアギリシア語古典を多数手がけたアルドゥス・マヌティウスと、英国に印刷術を根づかせたキャクストンの二人を大きくとりあげている。

 ヴェネツィアには大学はなかったが、コンスタンティノープルからギリシア人学者が多数亡命していた。アルドゥスは最高の学者を工房に集め『アリストテレス著作集』をはじめとする古典の信頼にたるテキストを版行した。アルドゥス工房は単なる印刷所ではなく、同時代最高の知の共同体だったという。

 キャクストンの方は毛織物商人として一家をなした後で、取引先のブルージュ活版印刷と出会い、1475年、印刷機一式をもって英国にもどっている。この時点で50歳を越えている。当時の平均寿命を考えると晩年になって活版印刷という海のものとも山のものともわからない新技術に乗りだしていったのである。すごいことだ。

 キャクストンはウェストミンスターを拠点に上流階級の顧客向けに手堅い商売をつづけるが、跡を継いだド・ウォードは廉価の小型本に主力を移し広い客層を狙い、これがみごとに成功する。キャクストンとド・ウォードの出版活動が標準英語の確立に寄与した事実も見逃せない。

 グーテンベルク研究の最新動向については富田氏の『さまよえるグーテンベルク聖書』よりもさらに突っこんだ話が読める。インクの成分を陽子線で分析するとか最先端のハイテクが使われる時代になっているのである。

 一般向けの本なので広く浅くは仕方ないが、平明で穏やかな語り口は呼んでいて快い。出版の歴史に興味のある人が最初に読む本としておすすめできる。

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