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『神話論理〈2〉蜜から灰へ』 レヴィ=ストロース (みすず書房)

神話論理〈2〉蜜から灰へ

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 『神話論理』の第二巻である。表題の「蜜」とは蜂蜜、「灰」とはタバコの灰をさす。

 レヴィ=ストロースは本巻では「神話の大地は球である」ことを証明すると大見えを切るが、その前に蜂蜜について説明しておかなくてはならない。本巻に登場する蜂蜜はわれわれがよく知っている蜂蜜とは似て非なるものだからである。

 そもそもアメリカ大陸にはヨーロッパ人が西洋蜜蜂を持ちこむまでは蜜蜂は存在しなかった。しかし蜜を貯める蜂はいる。ハリナシバチやスズメバチの一部で、本巻で「ミツバチ」と総称されるのはこのハリナシバチやスズメバチのことなのである(蜜をつくる蜂の総称を「ミツバチ」とすると紛らわしいので、第三巻以降は「ハナバチ」と訳語が変わっている。本欄でも総称は「ハナバチ」で統一する)。

 驚いたことにハリナシバチやスズメバチは花の蜜だけではなく、樹液や人間の汗、糞尿、腐肉なども餌にしていて、その蜜は苦かったり、酸っぱかったり、有毒だったりする。また水分が多く、すぐに 醱酵して蜂蜜酒になる蜜もある。

 蜜蜂のつくる蜜は花の種類で味と香のバリエーションがあるが、どんな蜂蜜でも完全に甘い側に位置する。ところがアメリカ大陸在来のハナバチの蜜の多様性はそれどころではなく、最上の食品から毒物までさまざまだ。甘いと苦いの対立が蜜の中にあり、おいしいと舐めていると正気を失ったり、吐き気をもよおしたりするかもしれない両義的な食物なのだ。そしてこの両義性が神話の重要な要素となるのである。

(蜜蜂以外の蜂のつくる蜜というのが想像がつかないので検索してみたら、「ミツバチのいる風景」というミニ番組とグアテマラでペンションを経営する日本人女性のハリナシバチ養蜂体験記が出てきた。ハリナシバチ養蜂は西洋蜜蜂に押されて一時衰退したが、西洋蜜蜂がアフリカ蜜蜂と交雑して凶暴化したために、最近復活のきざしがあるという。)

 蜂蜜と対称的な位置にあるのがタバコである。蜂蜜とタバコはどちらも最上の食物であり毒でもあるという両義性で共通しているが、さらに料理ではないという点も同じである。

 料理ではない理由は蜂蜜とタバコでは真逆である。蜂蜜が料理でないのは蜂のつくった自然の賜物であり、人間が火を通す必要がないからだが、タバコの方は火を通すことを飛び越え、火で燃やしてしまうからである。蜂蜜が料理以前だとしたら、タバコは超料理なのだ。

(第三巻の内容になるが、それが端的にあらわれているのは北米大陸の神話における蜂蜜の相当物である。北米大陸ではハナバチはある時期から姿を消してしまい、蜂蜜は知られていないが、北米インディアンの神話には蜂蜜に相当するものがある。ちょっと考えるとカエデの樹液を煮詰めてつくるシロップのようだが、そうではない。スネークベリー(ヘビイチゴ?)などの野生の漿果がそれにあたるのだ。)

 面白いことに蜂蜜の起源神話(M192)では、蜂蜜は最初は栽培植物だったことになっている。

 大昔蜂蜜はオオカミが独占していたが、カメに先導された動物たちがオオカミを焼き殺し、蜂蜜の苗木をわけあった。ところが多くの動物は蜂蜜の苗木を植える前に食べてしまったので、カメはわずかに残った苗木を森にもどし、増えるまで待とうと申し合わせた。カメは言った。「お前たちが携えていくヒョウタンなどの器に入れて採ってくるだけなら、蜂蜜は決してなくならないだろう。しかし運びきれない蜂蜜は幹の中に残し、口をしっかり塞いでおかなければならない。次の時のためである」

 この神話は栽培種だった蜂蜜を野生もどす過程を語っている。この過程は第一巻『生のものと火を通したもの』で語られた栽培植物の起源神話を正確に反転させている。第一巻は自然から文化への移行がテーマだったが、第二巻は文化から自然への退行という逆操作をあつかうのだ。レヴィ=ストロースが本巻冒頭で「神話の大地は球である」ことを証明すると宣言したのは神話素の変換には逆変換があり、群論的に閉じているという意味である。

 ついでにいえば、神話素が群の構成要素なのではない。群の要素は神話素の変換という操作であって、変換と逆変換が閉じた体系を作っているのである。

 本巻では文化から自然への退行を象徴するようなキャラクターが論じられている。「蜂蜜に狂う娘」と呼ばれるキャラクターで、多くの神話に登場するが、短いものを紹介しよう。

 あるインディアンが妻とともに蜂蜜を探しにいった。蜂の巣が見つかった木を倒すやいなや、妻は蜂蜜が我慢できずに木に飛びついた。夫は腹を立てて妻を殺し、死体を切り分けて焼肉にした。

 男は村に帰ると、焼いた妻の肉をアリクイの肉だといって義母や義妹に食べさせた。義兄がもどってきて焼肉を食べると。すぐにそれが何の肉か知った。

 翌朝、義兄は男を草原に連れだした。一本の木の下で火を燃やすと、その木に登らせハナバチの巣を探させた。義兄は男を矢で射殺し、死体を火で焼いた。

 この神話では「蜂蜜に狂う娘」は親族に食べられてしまうが、別の神話では動物に変えられてしまったり、失踪したり、ろくな目にあっていない。

 「蜂蜜に狂う娘」はなぜこんな哀れな最期をむかえるのだろうか。レヴィ=ストロースは蜂蜜は婿入りした男が妻の親族に提供する最大の贈物なのに、それを独占しようとしたためだとしている。

 蜂蜜に狂う娘の過ちは、利己心や食い意地あるいは恨みの程度がひどくなって、姻族間の供与の循環を断つにいたった点にある。彼女は自分一人で食べるために、蜂蜜を抱えこんでしまって、蜂蜜を集めてくる夫から蜂蜜の消費を担当する両親へと、言ってみれば、蜂蜜を流通させなかったのである。

 欲望を抑えられない女ということなら「バクに誘惑される妻」の神話群がある。「バクに誘惑される妻」は不倫相手のバクを食べてしまうが、食べる/食べられるという点では反転するものの、「蜂蜜に狂う娘」と非常によく似ている。どちらも自制心が欠けているために、親族関係を危機に陥らせ、文化から自然へ退行させるキャラクターなのである。

 本巻の後半では「泣き虫の赤ん坊」というキャラクターが論じられるが、レヴィ=ストロースはなんと「泣き虫の赤ん坊」を日本のスサノオと関連づける。

 日本のものもアメリカのものも、これらの神話は同一の図式に驚くほど忠実である。泣き虫の子供は母親に見捨てられた赤ん坊であるか、母親の死後に生まれている。死後に生まれるということは、捨てられる時期が早まっているだけである。……中略……泣き虫の子供は空に昇り、腐敗した世界を生み出す(雨、けがれ、病気の原因である虹、短い命)、あるいは対称的なヴァリアントにおいては、空に昇るのは世界が焼けないようにするためである。これが少なくともアメリカの神話の図式であり、それが日本の神話では二つに分かれ逆転している。

 レヴィ=ストロースが参照しているのは『古事記』と『日本書紀』を翻訳者がまぜこぜにしてフランス語にしたテキストなので、異論のある人もいるだろうが、スサノオを母親に捨てられた「泣き虫の赤ん坊」と喝破した点は鋭いと思う。

 レヴィ=ストロースはアメリカ大陸の神話を記紀神話と比較しているだけではない。「暗闇の楽器」の神話群の変形過程をヨーロッパ中世のシャリヴァリという風習につなげたり、びっこの踊りと中国古代の帝王禹の神話の対称性を浮彫にする。

 旧世界とアメリカ大陸は最後の氷河期が終わる時期、短期間しかつながっていなかった。縄文人が太平洋を渡ったとか、ヴァイキングハドソン湾に達していたという話もあるが、コロンブスまではほとんど交流はなかったといっていい。したがって神話に共通点があっても、従来の伝播説では説明がつかない。もし新旧両世界の神話に同型性があるとしたら、人類がアメリカに渡る前に形成された人間精神の共通の構造に根ざすのではないか。

 『神話論理』第二巻にいたってレヴィ=ストロースの探求の目指す方向がようやく見えてきた感がある。

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