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『神話論理〈3〉食卓作法の起源』 レヴィ=ストロース (みすず書房)

神話論理〈3〉食卓作法の起源

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 『神話論理』の第三巻である。

 四巻本の三巻目になると普通なら読む速度が速くなってくるところだが、『神話論理』は巻を追うごとに速度が遅くなってくる。難解でもないし、つまらないわけでもない。書いてあることは実に簡単明瞭。次から次へと登場する神話も面白い。それでも読むのに時間がかかるのは、既出の神話への参照が多いからだ。神話には「M354」のようにすべて通し番号がふってあり、「M354」がどんな話か思い出さないことには何を言っているのかさっぱりわからないのだ(『神話論理』には全部で813の神話が登場するが、レヴィ=ストロースはそのすべてを諳んじていたらしい。いやはや)。

 『神話論理』の論述は網の目になっており、リニアな語りにはあわない。こういう著作は紙の本で出すのではなく、電子テキストにしてリンクをはりめぐらし、神話番号をクリックするだけでその神話の場所に飛べるようなしかけにするのがよいだろう。レヴィ=ストロースは早く生まれすぎたようである。

 さて本巻から舞台が北アメリカ大陸に移るが、最初の部分ではまだギアナあたりをうろうろしていて、南北両アメリカ大陸に広く分布するカヌーの旅の神話とともにパナマ地峡を越えるという趣向である。

 北アメリカ大陸といっても、本巻があつかうのは五大湖より東と、西部の南半分までであり、アラスカからオレゴンあたりまでの北西部は含まない(北西部はアメリカ大陸でもっとも古くから人間が居住した地域であり、『神話論理』は先住民の移住ルートを南から北へ遡っていく構成をとっている)。

 最初に登場するのは狩人モンマネキである。彼はカエルなど人間以外の妻と四回結婚するがいずれも失敗し、最後に人間の妻と結婚する。結婚の失敗の原因は性的・身体的な問題などさまざまだが、第5部にいたって食卓作法の問題としてくくれることが明かになる。『食卓作法の起源』と題される所以である。

 本巻でいう「食卓作法」とは単なる食べ方ではなく、性的・身体的な問題にまで拡がる、女性としてのたしなみ全般をさすのである。

 女性のたしなみを象徴する技芸がある。ヤマアラシの針毛刺繍である(本巻では「針」という訳語をあてているが、第四巻の「針毛」の方がわかりやすいので「針毛」で統一する)。

 針毛刺繍とはさまざまな色に染めたヤマアラシの針毛を布に刺して模様をあらわしていく技芸で、現在はビーズを用いるようである。

 面白いのは針毛刺繍が高度に発達したのはヤマアラシがあまり生息しない地域だということだ。ヤマアラシが多く生息するのは北アメリカ大陸北西部で、本巻があつかう東部と南西部にはあまりいないのだ。

 なぜヤマアラシがいない地域で針毛刺繍が芸術の域にまで高められたのだろうか。レヴィ=ストロースは書いている。

 技術や入念さ、豊かさや複雑性の面で並はずれた特性をもつとともに哲学的なメッセージを表現する刺繍に携わる人々の目には、ヤマアラシがその珍しさゆえに崇高な動物として映り、まさしく「他界」に属する形而上学的動物と化した可能性がある。反対に、オジブワ族や東アルゴンキン諸族にとってヤマアラシは、針毛を採取したあとに食用にする現実の動物である。

 本巻がカバーする地域ではヤマアラシは単なる動物ではなく、形而上学的な存在なのだ。当然針毛刺繍にも特別な意味あいがある。

 神話には針毛刺繍に夢中になるあまり、冬眠中のヤマアラシを引きずり出す娘が登場するが、レヴィ=ストロースは前巻に登場したハチミツに熱中する娘との共通点を指摘する。ヤマアラシは冬の主であると同時に、刺繍の材料である針毛の提供者でもある。この両義性は誘惑的であるとともに毒性をもつかもしれないハチミツの両義性に通じる。

 ヤマアラシは季節にしたがって針毛を生え変わらせ、生態を変える生き物であり、その循環を乱す行為は、妻の一族に広くゆきわたるべきハチミツを独り占めするのに等しい秩序の破壊行為だというわけである。

 秩序を守ることは時間の循環を守ることであると同時に適切な距離をたもつことでもある。

 カヌーの旅では主人公は中央に、月と太陽は舳先と艫にわかれてすわる。舳先と艫の距離は一定であり、カヌーの旅は月と太陽の運行を秩序づける意味あいがある。

 主人公はペニスがなかったり、ペニスをくっつけてもらったはいいが、あまりにも長すぎて歩けなくなり、背中に背負った籠の中にとぐろをまかせて収納しなければならなくなったりする。

 神話が語ろうとしているのは秩序の重要性ということのようだ。人間、ことに若い娘は秩序の破壊者になりかねないので、作法で縛る必要があるのだ。

 思春期の娘――さらには出産した女性、寡婦寡夫、殺人者、墓堀り人、聖俗の儀礼の執行者――を対象にした禁止に、ひとつの意味があるとすれば、それはわれわれがべつべつに描いてきたことをひとつにまとめるという条件ではじめて成立することになろう。食事のきまりを破り、食卓や身繕いの道具の使い方をないがしろにし、禁じられたおこないをする、こうしたことすべては、宇宙を害し、収穫をだめにし、狩りの獲物を遠ざけ、他者を病気と飢えの危険に曝すことなのである。そして自分自身に対しては、早すぎる老化の徴候を出現させることで人間の通常の寿命よりも短い生をもたらすことなのである。

 ざっくりまとめると以上のようになるが、余談の部分が実に面白い。たとえば実証主義的な神話研究の代表であるフィンランド学派との比較論。フィンランド学派は神話はある一点から周辺に拡がったと仮定し、分布地域から発生年代を推定する。ヤマアラシの神話群でいえばまず基本形が生まれ、それから太陽と月の諍い、マキバドリの神話と発展したとし、最も古い基本形は18世紀に遡るとする。

 それに対してレヴィ=ストロースは自らの神話研究を次のように位置づける。

 歴史学派が偶然的なつながりと通時的な発展の足跡を見いだそうとしたところに、われわれは共時性において理解することのできる体系を発見した。彼らがひたすら項目の一覧を作ったところでは、我々はさまざまな関係以外のなにものも見なかった。彼らが変り果てた残骸や偶然の寄せ集めをせっせと収集したところでは、意味のある対比を明らかにした。これはフェルフェィナン・ド・ソシュールの教訓を実行に移しただけである。

 神話の異文は単なる偶然の寄せ集めではなく、一つの体系をなしているというわけである。有名な料理の三角形を再考した条もあり、本書には『神話論理』の方法論をあらためて確認するという意味あいもある。

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