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『孤独の発明』ポール・オースター 柴田元幸訳(新潮文庫)

孤独の発明

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狂気の発明

 かつてオースターの諸作品を読んだ時、そこに綴られる世界に戦慄に近い感覚を覚えたのを思い出す。そこには、分裂した精神が奇妙な具合に統合されているような独特の空気があった。思考と感覚のあいだの連結が外れたり繋がったりをしながら自己が瓦解していく過程が、不思議な流れで描かれていた。自己と世界を繋ぐ「言葉」という綱が、もつれたり張りつめたりしながら、自己が外界から剝がれていく。つまりは、自己が壊れていく。端的に言えば、そこでは狂気の過程が繊細・緻密に描写されていた。作家自身が精神の危機を経過しないかぎり書きえないことだろう、と思ったのを思い出す。


 思い出すといえば、5,6年前のこと、わたしは俗物根性を丸出しにして、ニューヨークで催されたオースターの公開インタビューに馳せ参じたことがある。俗物根性というわけは、写真で見かける彼の美貌を拝んでおこうというのが参加の一大動機だったからだ。美貌は一瞬で確認され、写真が誇大広告ではないことは一目瞭然だった。意外だったのは、オースターがつくづく穏やかに語り、動き、笑っていたことだった。危うさの片鱗も感じられなかった。

 実物のオースターは家庭人のナイスガイであると訳者の柴田元幸もあとがきで書いている。吉本ばななも「思っていたよりもずっと、おだやかな人だった」と文庫版に付せられた文章で記している。こうなってくると誰もがオースターの正気(または狂気)の品定めをしているかのようだ。

 柴田元幸が書いているように、「世の中には書くことによって正気を保つと考える作家と、書くことによって自己のなかの狂気に触れると考える作家が存在するようだが、オースターは明らかに後者のグループに属している」。それは、『孤独の発明』を皮切りにして詩作から散文作家へと軌道を拡げてからというもの、ニューヨーク三部作と呼ばれる『シティ・オブ・グラス』・『幽霊たち』・『鍵のかかる部屋』のベストセラーを輩出し、その後も安定した著作活動を維持していることからも頷ける。書くという行為が救済である場合、創作を一定に継続していくことは相当に困難であるはずだからだ。

 それにしても、オースターの正気が訝しく思えるような何かが彼に内在していることに変わりはない。狂気と紙一重でありながらけっして同一ではなく、オースターの以後の創作に一貫する何かについて、『孤独の発明』という「自伝」は種明かしをしてくれている。その何かとは孤独であり、より正確に言うならば題名のままの「孤独の発明」にほかならない。

  『孤独の発明』は自由連想に満ちている。精神分析の治療方法としての自由連想には、当然のこと、治療者がいる。自由に連想された物事や記憶の断片をつなげる糸を見出だし、意味を見出していく手伝いをする他者だ。ところが、オースターは治療者と被治療者の二役をこなし、さらに読者という架空の第三者を想定しつつ自由連想していく。連想する自分とそれを省察する自分、自分のなかの他者、他者のなかの自分、物体のなかの自分、部屋のなかの自分、幾層にも重なり共鳴する自分、それを見る自分が、執筆という現在形の行為と不可分に進行していく。そのあり方は本の扉に示されたオースターの父親の写真と呼応する。ミラーボックスで増幅する5つの顔を見せるオカルト紛いのモノクロの写真。父親の遺品のなかから見つかった写真だ。

 突然の父親の死を契機に、自由連想は発動する。『孤独の発明』は二部構成になっていて、第一部の「見えない人間の肖像」では、父親が見事に人格解析されている。しかも、父親の父親(つまり父方祖父)の流血事件を探り当て、往年の新聞記事を織り交ぜて、その後のオースターの作品の特徴となる探偵小説的風味すら添えられている。

  「見えない人間」とは父親にほかならず、父親の孤独とその背景が描かれているわけだが、父親の孤独は、「退却という意味の孤独。自分自身を見なくてもよいという意味の孤独、自分が他人に見られているのを見なくてもよいという意味の孤独」である。それは狂気という自己の瓦解から身を守るための防衛としての孤独であり、封印された孤独である。それに対比される孤独、おそらくはオースターの孤独は「自分がどこにいるのかを知るためにみずからを追放の身に追いつめたソローの孤独」や「鯨の腹のなかで解放を祈るヨナの孤独」である。その孤独こそは執筆という行為に集約されるもので、それは封印とは対極にある創造と発明なのだ。父親の孤独が狂気からの逃亡の術だったとすると、オースターのそれは狂気の創造ですらある。どちらも暗い闇に降り立つあり方だとしても、後者にはヨナが鯨から、ピノキオがフカから脱出する解放がある。孤独が狂気と同義語ですらありえても、オースターの孤独と狂気には解放と繋がりに向けての窓がある。

 第二部の「記憶の書」では、『ヨナ書』と『ピノキオ』が連想の骨子を務める。いずれも父親(神)と息子の隔離・乖離・離別と邂逅を物語ったもので、オースターの得意とする古典の知的・詩的解釈が楽しめる。同時に、これまたオースターの十八番である劇中劇、マトリューシカ風の入れ子物語も堪能できる。

  「記憶の書」にいたっては、自由連想は時空を越えて、めくるめくように展開される。そして、それほどまでに奔逸になっても統合されていく自己を支えているのは、結局のところ、オースター自身の息子の存在である。父親と自分という親子関係は、自分と息子というもうひとつの親子関係に重なり、止むことなき心的投影の波紋を描いていく。「父親が死ぬと、…息子は自分自身の父親となり、自分自身の息子となる。彼は自分の息子を見て、その顔のなかに自分自身を見る。息子もまた彼を見て、自分が自分自身の父親になるのを見出す」。そして、息子との関係には父親との関係を修復させる力があるのだ。「息子のなかに自分自身の消え去った過去が見えること、それが彼の心を動かすのだ。彼が感じるのはいわば、自分自身の人生へのノスタルジアである」。

  「歴史は繰り返す」と言われる。ある世代の受けた心的外傷は、無意識に次世代に継承され、狂気または狂気からの逃亡という孤独を繰り返しやすい。オースターをこの反復から救済したのは、必ずしも文学ではなく、家族という愛情の場なのだろう。「彼ら(家族)が僕を正気に保っていてくれる」というオースター自身の言葉は真実なのだろうと思う。それでも残る狂気への傾倒を、彼は文学という手段によって、狂気に陥るというありえたかもしれない運命を転覆させる「発明」へと転化させているのだ。

 かつてオースターの作品のなかにわたしが見た狂気の片鱗は、20年近く経った今、瓦解ではなく修復として見えてくる。


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