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『ギャシュリークラムのちびっ子たち』エドワード・ゴーリー 柴田元幸 訳(河出書房新社)

ギャシュリークラムのちびっ子たち

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物騒な絵空事

 毎日のニュースでは物騒な事件に事欠かない。身内と身外を問わず、こどもたちが流血の惨事を繰り広げている。物騒であろうがなかろうが、空想と現実には連なりこそあっても、大きな懸隔があるはずなのに、そう信じることすら現実離れしたことになりつつある。

 先日、ある若い女性にお会いした。彼女は職場の同僚から気にそぐわない発言をされて以来、日常生活がままならない。けれども、彼女の辛さは低下した日常能力そのものではなくて、別のことにある。その同僚の名前が目に入るたびに、「死んでしまえばいい」といういかがわしい言葉が頭の中に湧いてしまう自分が信じられず、耐えられないのだと言う。「嫌な奴には腹も立つし、『死んでしまえばいい』と思っても不思議はないでしょう」というわたしの台詞は、彼女にはなんとも剣呑で不謹慎にすら聞こえたらしい。「死んでしまえなんて本当に思っているわけではないんです」と抗弁する彼女にとって、「死んでしまえばいい」は譬えどころではないらしい。

 誤解が怖いので彼女の名誉のために説明するが、この女性が新聞を賑わすような事件を起こすことはありえない。彼女のベクトルはむしろ逆で、嫌悪や憎悪といった人生につきものの人情をもっと自分に許すことが必要なのだろう。

 それにしても、「死んでしまえばいい」をはじめとする頂けないフレーズがネット空間では蔓延しているらしい。手垢にまみれた捨て台詞だった「死んじまえ」や「この野郎」は、生きた対人関係の場からはフェイドアウトし、画一化した文字に姿を変えて、人肌のないサイバー空間で平然と闊歩している。

 身体で感じる不快感が自分の言葉として身についた時、その不快ははじめて自分のものになる。不快だけではない。快感も感動も然り。それが言葉を迂回したり、流行り言葉で身についた気になったりすると、体験は借り物のままとなる。血肉になっていない借り物の言葉は、場合によっては、憑依する異物として横暴を働きかねない。物騒な言葉(つまりは思考)に免疫のなかった女性が、ネットのタグとなって横行する「死んでしまえばいい」に忽然と憑かれてしまった不幸もひとつの例だ。

 もっとも、人肌のなかで嫌悪を言語化して、ほど良い自分の体温にすることの苦手な人にとっても、憑依を避ける方法はある。文学はそのひとつだ。たとえば、憎悪や憤懣の究極的表現である殺人は、小説や元来の童話(近代化された市民生活のなかで殺菌・消毒さながらに衛生化される以前のかたち)によって代理経験するのが、個人的にも社会的にも穏当な生き方なのだろう。わたしは数年ごとにケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を読む。痴情のもつれで性懲りもなく殺人を犯してしまうカップルの話だ。絶版になっているので、この書評空間では触れることはなかったけれど、複雑な企みのない筋書きに不思議と魅せられる。素朴に描かれた貪欲と短絡、不信と暴力が、心の琴線に触れる。いかなるジャンルであれ、心を動かす文学は、カタルシスを生むものだ。その過程のなかで、作家の言葉は借り物ではない自分の体験となり、自分に見合った体温になって腑に落ちていく。

 長い前置きとなった。ようやくに、『ギャシュリークラムのちびっ子たち』の薦めとなる。この作品は、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』よりも遥かに端的な残酷・無惨のオンパレードだ。なにしろ、この絵本では、アルファベット順に26人のこどもたちが並べられ、それぞれがそれぞれの理由で死んでいく。小説や童話といった物語のなかの死は、大概は因果関係を持っていて、不運はあっても、いわゆる犬死はない。ところが、『ギャシュリークラムのちびっ子たち』は因果も動機もないままに片端から死んでいく。その死には後も先もない。短いひとつの文章に完結される(事故)死のスナップショット集なのだ。

 たとえば、”G is for George smothered under a rug.” (Gはジョージ じゅうたんのしたじき)。” N is for Neville who died of ennui.” (Nはネヴィル のぞみもうせて)。” Z is Zillah who drank too much gin. (Zはジラー ジンをふかざけ)。ゴーリーならではのタッチで描かれたモノクロの絵をここで紹介できないのが残念だが、古色蒼然とした風情を漂わせた重い絵に添えられた言葉がまた重厚で、ゴーリーの語彙は一筋縄ではいかない。この絵本はまだ初歩的で、彼の作品の多くは辞書を片手でないと手ごわくてかなわない。ゴーリー語の翻訳に挑戦した柴田元幸の苦労は計り知れない。当然の配慮として、日本語訳には原文も添えられているので、ゴーリーの抹香臭さは二重に堪能できる。

 それにしても、これだけ物騒な作品にもかかわらず、ゴーリーの言葉と絵には不愉快や戦慄はない。むしろ、どこか長閑(のどか)ですらある。時代錯誤の服装をしてニューヨークの有名書店ゴッサムブックマート(最近、閉店してしまった!)に出没し、多くの猫とともにケープ・コッドに隠棲した奇人エドワード・ゴーリーの死のアルバムには、冷酷の代わりに微妙な温もりがあり、激情の代わりに沈静がある。変動のない低体温を感じさせるトーンは、パンチの利いたブラック・ユーモアとは一線を画する独特の世界を醸し出している。マザーグースの不気味さとナンセンスを想像してもらったら近いだろうか。

 異端の作家ゴーリーの絵本では、物騒な絵空事絵空事のままに、13cm×16cmばかりの掌に乗る一冊に充溢している。ゴーリーファンのわたしに言わせれば、いたいけな子供たちの惨死に目くじらをたてる方が、よほど物騒な事態なのだ。


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