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『閉鎖病棟』箒木蓬生(新潮文庫)

閉鎖病棟

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浪花節版『ショーシャンクの空の下に』―

 もとより辛気臭いわたしが曲がりなりにも生活していくためには、必要な条件というものがいくつかある。ある種の感動もそのひとつだ。たとえば、『ショーシャンクの空の下に』を観た(原作は読んでいない)時の感動がそれで、そんな時には「人間というのも捨てたものじゃない」といった素直な楽観に浸ることができる。(屁)理屈も深層心理もさっぱり抜けて、順朴に胸がいっぱいになるようなタイプの感動は、生きていくのに効果がある。

 『ショーシャンクの空の下に』 には神や宗教こそ顕在しないが、原題の“The Shawshank Redemption”にあるRedemption は、宗教的含蓄に満ちた言葉で、取り戻し、償還、約束履行、贖い、救済等々、実に多様な意味に訳されうる。何を奪回し、何が約束・履行され、自由とは何か、救済とは何か、意志と希望を支えるのは何か、といったテーマが原題には凝縮されている。刑務所という極端な状況下は、そのようなテーマを浮き彫りにするのに格好の舞台であるわけだ。

 この映画を始めて観た時、わたしは精神病院を彷彿しないではいられなかった。実際、刑務所と精神病院は歴史的には密接な関係にある。犯罪者と精神病者が区別なく監禁されていた時代は遠い過去のこととしても、閉鎖空間での隔絶を余儀なくされる点において、両者は自由の剥奪という大きな共通項を担っている(勿論、精神病院がすべて閉鎖空間であるわけではなく、自由意思で入院する場合も多いことをお断りしておく)。

 臨床家として精神病院に勤務し、長期入院(半世紀以上という方々も珍しくない)している人々と接していると、治療や療養という大義名分はあっても、実のところ「社会的入院」という大きな壁、つまりは家族もなく彼らを受け入れる住居(援護寮なりグループ・ホームと呼ばれる支援施設)の不足のために退院をできずにいる人々の多さには溜め息がでる。さすがに、冤罪によって入所させられた『ショーシャンク』のアンディに匹敵するような方、つまり病気でもないのに入院している方にはお目にかかったことはないが、長期の入院によるホスピタリズム(安易な言葉で好みではない)によって、退院をはじめとする「社会復帰」への道標を失くしてしまった方々の数は枚挙に暇がない。  

 『閉鎖病棟』には、そうした長期入院によって病院を生活の場とせざるをえない人々が登場する。どの登場人物をとってみても、いかにもありえそうな過酷な過去を背負い、どこの精神病院でも見聞される裏社会(職員の蔭で展開する患者さん同志の闇取り引き)があり、ありがちな職員の顔ぶれが描かれている。著者の箒木が現役の精神科医なのだから当然でもあって、作家のリサーチと想像力によって継ぎはぎされているのではない臨場感が、この作品に人工的・作為的でない自然な流れを与えている。

 わたしにとって虚構を感じさせないもうひとつの要素は、『閉鎖病棟』が醸し出す懐かしい精神病院の文化にある。「精神衛生法」は「精神保健法」に、ついには「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」へと精神障害者のための法規は改正されてきた。そこまで転々と呼称を変えることにどれほど意味があるのかは知れないが、法規改正に則って彼らの環境が改善されていくことは喜ばしい。けれども、『閉鎖病棟』に描かれているような日常の作業やレクレーションは、「治療的」でなく「使役」や「こども扱い」であるとして、多くの精神病院から消滅していっている。確かに、病院は治療の場であって、生活の場ではない。入院治療の緊急性がなくなった時点で通院治療に切り替えるのが、通常の医療というものには違いない。問題は、現実の精神科医療は、そのような理想からは遠く、変革の過渡期にあって、すでに長期入院をしてきた方々にとっては病院が生活の場以外の何ものでもないということだ。

 『閉鎖病棟』は、そうした過渡期への門口に立つ地方の病院が舞台となっている。したがって、旧態依然とした精神科医が去って、颯爽とした若い女医が現れたところで、主人公の退院と新しい人生が始まることとなる。新しい人生の始まりとは、古いそれからの離脱であり、喪失でもある。箒木自身がどこまで古い精神病院文化へのノスタルジアを込めたのかは不明だが、この作品には新しい潮流と古きものへの郷愁がほど良い具合に織り込められている。方言がその郷愁に広がりとまろやかさを添えているのは言うまでもない。しみじみと情緒に満ちた文体には棘がなく、無駄もない。つまり、無理なく読める。読者の度量に挑戦してくるような気負いもなければ、独りよがりの尊大さもない。

 そんなわけで、わたしは自分勝手の合点とノスタルジアに浸って、浪花節版『ショーシャンク』を満喫して読了した。ところが、人生の楽観から覚めてみると、この作品で展開される出来事や登場人物の背景など、よくよく考えるとけっして「ありがち」ではない。当たり前のことと一蹴されそうだが、精神科医に「ありがち」との催眠をかける巧みさは感服に値する。そもそも、『閉鎖病棟』といいながら、舞台は「開放病棟」にほかならないのだ。けれど、そうした気づきは興醒めではなくて、大衆小説を書ける作家としての箒木蓬生の力量を確証したことになる。だいいち、小説を読む時くらい、易々と騙されてしまうのも悪くないではないか。


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