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『風景の意味―理性と感性』山岸 健【責任編集】(三和書籍 )

風景の意味―理性と感性

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「策謀と誠実の両立」

全18考の収載論文の中で、北澤裕「インターフェイスと真正性」について考えてみたい。ヘルメス主義から新プラトン主義、策謀のマキャベリ主義と誠実さの相克。合理的ルネサンスの虚像があり、オカルト的ルネサンスへの誤解がある。

『君主は。。。いろいろなよい気質をなにもかもそなえている必要はない。しかし、そなえているように思わせることは有用である。。。そういった立派な気質をそなえていて、つねに尊重しているというのは有害であり、そなえているように思わせること、それが有用である。』(本書P.143)、『人は、必要に迫られて善人となっているのであって、そうでなければ、あなたに対してきまって悪事を働くであろう。』(本書P.146)(何れも本書における君主論の引用から)

という文章文脈は、一見それに真っ向から相反するイギリスのフェアプレー精神・ジェントルマンシップに照らしてみると、今日においてもあきらかにこの両国のインターフェイスの相違となっているところだ。しかしそこにシェイクスピア一連のイタリア劇(冬物語、ロメオとジュリエット、オセローなど)における「人間のむき出しの暴力」(サミュエル・フラー)を照らしてみる本書の視点は汎欧州的に突合したときにも共通とするところであって、人間関係を考える上で本来異なる要素であるはずの、「信頼」(あかの他人をまずは表面的には受け入れること)と、「信用」(何度か会っているからとか同じ会社にいるからという理由で他人を疑わないこと)、を同義で使用しがちな(「私たちはどうつながっているのか」/増田直樹/中央公論新社)わたしにとって学ぶべきインターフェイスの屋台骨であると知る。

本書に取り上げられているシエナ市庁舎にある「善性と悪政のアレゴリー」はアンブロジョオ・ロレンツェッティによる世俗フレスコ画の傑作であるが、こうしたコンテンツを会議室の壁に描かせるというシエナ市当局は政治的独創性において際立っている。事情は池上俊一シエナー夢見るゴシック都市」に詳しい。本書においても、またFrancis Yatesも'Giordano Bruno and the Hermes Tradition'( Routledge)に書くように、占星術と異教神信仰の秘儀神秘的なアマルガムでもありエジプトとヘレニズムの誇大妄想的誤解の産物であるヘルメス主義のエムブレムを、その壮麗なドゥオモのあろうことか入口正面床面に配置するこの街だけが例外ということではあるまい。出歩く人のいないクリスマスに、赤茶けた壁や屋根瓦の色で知られるこの街を夜歩き、革靴の音だけが街路に響いているとき、まるで自分が中世にいるような錯覚さえ覚えるほどで、そのなかにある壮麗な、そしてあろうことか黒白縞ゴシック様式のドゥオモに突然出くわす驚異は、その床面モザイクの異様さをいや増してくれるだろう。

『私が大それたことをしたのをご覧になったとしても、どうか、あなたはご存じないのだと私に思わせておいて下さい。それ以上のことはお願いしませんから』

というヌムール公の科白(「クレーブの奥方」/ラファイエット夫人/青柳瑞穂訳/新潮文庫/P.96)の尊大さと耽味さは、本書言うところの「他者や社会に配慮し誠実に義務を履行し公的役割を遂行すること自体が、<真の自己>の姿とみなされるようになった」(本書P.148)時代地域背景を抜きにはありえないだろう。自己所有物(恋人や使用人)に対してまで「自己のテクノロジー」を広げることが、近代においては「支配のテクノロジー」に還元されてしまう味気なさを持つに至った次第は、いまのgoogle支配世界にあって追確認可能であろう。シェイクスピア劇において恋する男女は頻繁に変装disguiseするが、現代日本のわれわれは、そうした自己を隠す方法を持たない。味気ないと感じること自体がノスタルジーであるが、戻るべき場所は既に限られてきている。
『出口を出てしまってはおしまいだ。生まれかわるということは絶対にない。出られることのない出口にねらっているからこそ、瞬間瞬間に生きているのだ。』

という岡本太郎(「迷宮の人生」)の言葉が清妙に響く。

(林 茂)

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