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『あんじゅう』宮部みゆき(中央公論新社)

あんじゅう

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かぐや姫よりも切なく、ETよりも可愛い

 宮部みゆきの時代小説には、善人ばかりが登場する。人格は円満で、年齢相応に世知長けて、分相応をわきまえている。人並みにある短所も、相方(あいかた)に抱えられて帳消しになること頻り。こどもは見事にこどもらしく、貴賎の差なく遊びつつ、働き学ぶことを怠らない。おとなはこどもの領域を侵さず、見守り諭す義務を全うする。そこには、頼もしい道徳ヒエラルキーがある。垣間見られる悪は、健やかで機微のある人情によって解毒される。したがって、不幸はあっても救いがある。

 ジャンルを越えて、絶え間なく執筆を続け、そのたびに巧妙な筋立てを産みだす宮部みゆきという作家には、驚嘆せざるをえない。短編・長編をともにこなしながら、息切れることなく持久走を続けている。

 独立して堪能できる短編が長編のあちらこちらへと繋がっていく時代小説群には、膨張するマンダラを見る思いがする。登場人物は、袖触れ合うままに数を増し、それぞれの来し方行く末がマンダラの随所に仕掛けられる。しかも、それぞれの個性は、諸作品を越えても、ぶれることなく一貫性を持つ。つまり、人物像の見立てに狂いがない。なかでも感心するのは、こどもたちの配役が実に見事なことだ。こどもの身丈に合わせてしゃがむという日頃忘れがちな優しさを、宮部みゆきの時代小説は思い起こさせてくれる。

  『あんじゅう 三島屋変調百物語事続』も例外ではなく、現在進行中のマンダラの一隅を占める逸品である。蛇足ながら、『おそろし 三島屋変調百物語事始』の続編であるにもかかわらず、本書から読み始めても支障がない。

 そもそも、不幸な出来事に心を痛めた娘おちかが、その回復のために他人の物語の聴き役になるという構想自体が卓抜している。

 偶々主人(おちかの叔父、伊兵衛)の不在中、おちかに打ち明け話をした客がいたことから、

 伊兵衛は思った。これは縁だ。彼が親しんできた碁敵が、初めて顔を合わせたおちかに、永いあいだ密かに隠してきた古傷を見せて、語って聞かせた。おちかの側に、呼び寄せる何かがったのかもしれぬ。二人のあいだに、通い合うものがあったのかもしれぬ。この人になら語ってもいい、と。いずれにしろ、これは導きというものだろう。

 伊兵衛は気がついた。今のおちかには、慰めや励ましよりも、むしろこうした形で世間というものに耳を傾けることこそが必要なのではないだろうか。

 特定の目的を持って物語が語り続けられるといえば『千夜一夜物語』が連想の筆頭に挙がるが、心的回復のためというのは聞いた試しがない。しかも、「黒白の間」に通された客とおちかの間には、主客の区別はあっても、王とシェヘラザードのような権力差がない。茶の湯のもてなしさながらの心立てには、相手を尊重する慎ましさがある。「語って語り捨て、聞いて聞き捨て」という約束事も、一期一会を彷彿させつつ、江戸の町人文化の粋(いき)を感じさせる。 

 本書に収められた4つの物語は、客がおちかに語る怪異譚が入れ子となって成立しているが、ひとつひとつの語り自体が、寓話として成立するほど物語性に満ちている。いずれも「日本昔ばなし」風の資質を携えていて、こども心にも届きながら、おとなを唸らせる魅力に溢れている。中央公論社版では、南伸坊のイラストが、こども返りに拍車を掛ける。なかでも、タイトルに抜擢された「あんじゅう」が人気の的となっているのは頷けるところで、世の中にはすでに「あんじゅうグッズ」が出回っているようだ。

 未読の方の楽しみを奪いたくはないので言葉足らずにならざるをえないが、イラストが表紙を堂々と飾っていることからも、「あんじゅう」が生き物モドキであることは暴露しても許されるだろう。この丸々とした黒い生き物モドキ、「となりのトトロ」の‘まっくろくろすけ’に似ていなくもない。けれども、人間と自然の共存と確執を主題とする宮崎駿とは違い、宮部みゆきの主題はあくまで人間の念にある。念が姿を変えて、様々な現われとなり、結果、怪異譚となる。この世のものとは思われないような「あんじゅう」は、かぐや姫やETに代表されるマレビトとしてではなく、人間のこころから内発する生き物モドキとして、わたしたちを魅了する。そして、読者はその消息を息つめて祈るようになる。

 宮部みゆきの時代小説は、江戸の市井を舞台として熟成を続けている。三島屋百物語は、まだ91篇も残っている。17歳だったおちかも、次作では20歳になる勘定になる。主人公を成長させていく歳月を見据える器量にも、作家の熟練を感じさせる。

 それにしても、百話を聴き終えたおちかは、いったい幾つになってしまうのだろう。


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