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『極楽・大祭・皇帝―笙野頼子初期作品集』笙野頼子(講談社文芸文庫)

極楽・大祭・皇帝―笙野頼子初期作品集

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三尺玉の祟り

 『二百回忌』を読んだら風邪をひいた。病床で『母の発達』を読んだら、支離滅裂な夢を見続けた。プロットはあったような気がするが、飛躍が過ぎて、脳が追いつけない。今となっては、イメージの残滓すらない。床上げして、性懲りもなく『金比羅』に手を出したものの、風邪をぶり返しそうになったので、読破を断念した。


 結局、笙野頼子との関係は、長引いた感冒を挟む短期間に限られている。読了したのは、総計7、8作品に過ぎない。離縁に骨折らなかったのは、読者という自由な身分のお陰だが、訝しいことには、今更ながら書評を書いている。奇妙な験でもかつごうとしているのか、供養でもしようとしているのか、われながら怪訝ではある。

 タイトルにもあるように、本書に収められた三作は笙野頼子の初期作品で、群像新人文学賞受賞作品である1981年発表の「極楽」、同年の「大祭」、受賞後のブランクを経ての1984年作品「皇帝」となる。芥川賞をはじめとする各賞を続々と獲得する1990年代に先駆けるこれらの作品群は、90年代以降の作風を確実に胚胎している。けれども、後年の作品群を過激なスターマイン花火とすると、これら初期作品は、さしずめ炸裂前の火薬玉に喩えることができる。折しも、「大祭」は、伊勢神宮遷宮祭を待ちわびる少年の日常を描いたものだが、時限爆弾を抱えたかのような祭り前の心象には、狂騒的な祭りを凌ぐ迫力がある。

 不機嫌が仕掛ける奔放な観念の連発、アルコール性せん妄を彷彿させる怒涛の幻視、上滑りと空回りを繰り返す消耗的対話が乱射される笙野頼子の祭りでは、天地は抜けて炸裂し、自己は膨張して世界と同体となる。他方、祭り前、「極楽」「大祭」「皇帝」の主人公たちは、自閉という自前の殻のなかで憤怒を培養していく。そこには、ひきこもりなどという安易な用語では片付かない物騒な意思がある。

 なかでも、「極楽」の禍々しさには、正真正銘の狂気を予感させる怖さがある。「あらゆる地獄から抽出した“憎悪”を絵画にして表すという行為」の軌跡を緻密に綴った本作は、サイコパスの自叙録としても通用する説得力を持つ。芥川の「地獄変」を連想させるものの、そこには芸術と倫理の葛藤はなく、醜悪の呪いが色濃く蔓延している。

 「同情と自己満足と妻への無関心から仮普請のような愛情を造った」主人公は、妻の顔と尻の肉の盛り上がりが区別のつかないほどに似ていることに気づいて“畜生”とつぶやく男である。4759枚に及ぶ少年時代からのデッサン画は、惨たらしい殺戮で充満し、償いとしての強迫的写実に費やされている。正鵠を射る内省が本作の真骨頂でもあるが、蛇が自らの尾を噛むような自虐は、尾から尻へ、腹へ、喉元へと自らを喰らい尽くして進んでいく。やがて、「憎悪のために描くのではなく憎悪を描くために憎むように」なった男は、「憎悪を刻むための手段でしかなかった」残酷絵から地獄絵へと移行し、そこに“完全な憎悪”を描こうとするのである。私怨を悪へと抽象させていく必然、その抽象に欺瞞を見る明晰すぎる自意識、憎悪に近接する醜悪への羞恥、偽善と偽悪の混沌が、独白の形で詰められていく。

 「極楽」では、超越者(自分にほかならないのだが)の声を聴いた自己がそのまま膨張して世界へと突破していくのではなく、再び自己へとそれなりに着地していく。臨死体験ならぬ臨狂体験を通過した虚脱を感じさせる着地である。終局、「極楽」で祀られているのは、自省の限りを尽くして残る哀しみのはずではないか、とわたしは思う。

 

 再び私事に転ずると、風邪からの病みあがり、日頃は関心の薄かった大正から昭和初期にかけての私小説に耽っていた。作家に卑近な世間で起こる火事やら不倫が清々しくすら映り、ひと心地が着いた。お粥と梅干を得たようにさっぱりした。それはまた、笙野頼子の作品が身体に障ったことを追認する事態でもあった。文学とは、毒にも薬にもなるということだ。勿論、毒は薬にもなり、薬は毒でもある。用いる人に依るわけだ。

 日夜、咳き込むなかで、わたしは改めて、文学の本性を畏れ、敬虔な思いに浸ることになった。そして、笙野頼子の三尺玉を拝んで、年の瀬の無事を祈願した。


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