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『孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生』 前野 ウルド 浩太郎(東海大学出版会)

孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生

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 バッタ。バッタに興味ありませんか?

 あまりない。ほとんどない。まったくない。むしろ苦手だ。見るのも嫌だ…。そんなあなたにとって、この本は、ぱらりと開いたその日からバッタが、いやバッタ博士が頭から離れなくなってしまう悪魔の書となるでしょう。まずは「はじめに」と題された書き出しを読んでみてください。

 あれは、小学生の頃に読んだ子ども向けの科学雑誌の記事だった。外国でバッタが大発生し、それを見学するために観光ツアーが組まれたそうだ。女性がそのツアーに参加したところ、その人は緑色の服を着ていたため、バッタに群がられ、服を食べられてしまったそうだ。私はこのとき、緑色というだけでみさかいなく群れで襲ってくるバッタの貪欲さに恐怖を覚えたとともに、ある感情が芽生えた。

「自分もバッタに食べられたい」

 その日以来、緑色の服を着てバッタの群れの中に飛び込むのが夢となった。

 最後の2行、読み間違いじゃないかと思ったあなた、バッタ博士の異常な愛情の世界へようこそ。

『孤独なバッタが群れるとき』の著者、バッタ博士こと前野氏は、サバクトビバッタを研究する秋田県出身の青年です。サバクトビバッタは、「サハラ砂漠などの砂漠や半砂漠地帯に生息しているバッタ」で、「しばしば大発生して、大移動しながら次々と農作物に壊滅的な被害を及ぼす害虫として世界的に知られて」います。この黒い悪魔の襲来から逃れる術は有史以来見つかっておらず、周辺国は彼らのもたらす貧困や食糧危機に絶えず悩まされ続けているのです。

(前略)群れの大きさは、大小あるが巨大な一つの群れは五〇〇メートル途切れることなく空を覆うことがあるそうだ。桁は決して間違っていない。ゆうに東京全域を覆い尽くす大きさだ。バッタの群れに巻き込まれると三メートル先が見えなくなってしまうらしい。羨ましい限りだ。私は映像でしか見たことがないので、とにかく想像を絶する規模で大発生するそうだ。(後略)

 引用部分、後ろから2行目におかしな一言がはさみこまれていますが、もう少しこらえて先をお読みください。

 幼少期にファーブル昆虫記を読んで「自分自身で虫の謎を解き明かす」面白さを知った前野氏。本書には、そんな前野氏が尊敬する師匠のもとで、バッタ大量飼育という重労働に耐えながら地道な観察や工夫をこらした実験を行うという、地味だけれどときめきに満ちた成長譚が綴られています。東北人らしい朴訥な文章。ひたむきな研究者生活。解き明かされていくサバクトビバッタの神秘。これまでバッタに1ミクロンの関心もなかったあなたも少しずつ、その愛らしさ、その生態の不思議さに惹かれていくはずです。

 2011年、前野氏はついに、サバクトビバッタの生息地であるアフリカのモーリタニアへ単身乗りこむことを決意します。研究者人生を賭けて挑むこの渡航計画が本書のクライマックスです。しかし、そんな前野氏を衝撃的な結末が待っていました。この年、モーリタニアは建国以来の大干ばつに見舞われ、なんと「バッタが忽然と姿を消してしまった」のです。

(前略)まったく運命のイタズラとは恐ろしい。恐ろしすぎる。人生をかけた一大勝負にまさかこのような落とし穴があるとは誰が予測できただろうか。そして、あの夢をいまだに叶えられていない。そう、バッタの群れに緑色の衣装を身にまとって突撃し、バッタに食べられる夢だ。せっかくパンツまで緑色のものを準備したというのになんということだ。何百万人もの人がバッタの被害に合わずに喜んでいる中、一人いたたまれないバッタ博士がいることを、どうか忘れないでほしい。

 断っておきますが、この本は非常に真面目な本です。バッタの観察、仮説構築、実験方法の考案と実施、結果分析、論文執筆。そのプロセスを緻密に、素人にも理解しやすいよう丁寧に解説しています。巻末にはお世話になった人への謝辞が長々と述べられ、前野氏の誠実な人柄をうかがい知ることもできます。

 しかしどうしても制御がきかなかったもの。それは博士がバッタに抱く異常な愛情。文章のあちこち、言葉のはしばしにジュワッと滲み出ているそれは、制御がきいていないというより、むしろ露出狂のようにわざと滲ませて読者の反応を楽しんでいるようにも見えます。そこがまた変態的なのです。しかしこの変態性こそが本書の魅力であり、ほとばしる情熱の源泉でもあるので、読者はあえてこの変態世界に身をゆだねるしかありません。ゆだねちゃいましょう。本を読み終わる頃にはあなたも、バッタのことしか、いや、バッタ博士のことしか考えられなくなっているはずです。

 そして、彼の狂おしい愛はついに砂漠に奇跡をもたらしたようです。この本が出版される直前の先月末、国連食糧農業機関が周辺国に「数週間以内にアフリカ北西部にサバクトビバッタの大群が飛来する可能性が高い」との警告を発しました。バッタたちが帰ってくるのです。

 そこに待ち構えているのは勿論我らがバッタ博士です。孤独に耐え、金欠に怯えながら、沙漠を這いまわり、待ち続けた彼の愛は今臨界点に達しているはず。その愛が今度はどんな新発見をもたらすのでしょうか。緑の衣に身を包み歓喜にうちふるえている博士の姿を想像しながら本を閉じましょう。『孤独なバッタが群れるとき』はバッタ博士こと前野・ウルド・浩太郎氏のエピソードゼロともいえる一冊です。次のエピソードを読む日がとても待ち遠しいです。


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