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『日本美術応援団』赤瀬川原平 山下裕二(岩波書店)

日本美術応援団

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日本美術を「乱暴力」を尺に観る

 過ぎた夏のこと、伊藤若冲という絵師に嵌っていた。大根を入滅する釈迦に模した涅槃図は、わたしの好きな一枚だが、まだ実物にお目にかかったことがない。大根は、春から東北巡業中と知り、追跡の旅程を練り始めた。ところが、いざ出立を思い立った矢先、混雑状況を知って腰が退けた。若冲がこれほど人気者であるとは知らなかった。仰天したことには、若冲の象や虎は、今やウィスキーのCMにまで登場している。結局、地図を眺め、本を開き、折に触れてテレビに映る動植物を横目で見ているうちに、若冲追っかけの夏は終わった。

 在宅での追っかけをする途上、『日本美術応援団』に出逢った。10年も前に出版された本で、ここでもわたしは時流に乗り遅れていたことを思い知る。有り難いのは、2004年初版の文庫版が今も流通していることだ。新陳代謝の激しい出版界にあっては珍しく、それだけ人気があるのだろう。赤瀬川源平×山下裕二のコンビは、本作が余程気に入ったと見えて、その後も似たような企画を連打している。しかも、画集を開いての座談から始まった本書は、後半から日本美術探訪の実旅へと発展し、本作以降は、文字通りの二人行脚へ突進している。『日本美術応援団』は、実動への船出を告げる一書なのだ。

 どこか敬遠されがちな日本美術に、もっと生で接触して、自由に体験しようという本書の主旨は、タイトルに端的に表現されている。頭で鑑賞する美術へのアンチテーゼが、楽しく盛り込まれている。勿論、言いたい放題の雑談に終始しているわけではなく、美術史家である山下氏が案内役となって、「歴史的に見る」作法を織り交ぜ、「歴史的に見ない」快感を伝えようという寸法が奏功している。

 雑誌連載を元とする本書は、18の画家や作品に、図版入りで10頁前後が配分され、早足ながら極めて読みやすい構造となっている。羅列すると、雪舟等伯若冲写楽北斎縄文土器龍安寺光琳青木繁・装飾古墳・円空・木喰・応挙・蕭白高橋由一佐伯祐三・蘆雪・安井曾太郎・根来塗となる。

 快感の触りとして各部のタイトルを少々列記すると、「雪舟が神棚から降りてくる」・「野心ぎらぎら 等伯がのし上がる」・「光琳をガラスケースから解放せよ」・「生半可じゃない真面目さ(応挙)」・「実は、内気なアバンギャルド安井曾太郎)」となる。

 『日本美術応援団』の面白みのひとつは、対談の妙にある。対談はわたしの好きなジャンルだが、行間が多くを語る活きのいい対話もあれば、編集者の校正が透けて見える加工品もある。本書では、初対面に近い赤瀬川氏と山下氏が、畏まって対面していたかと思うと、みるみるうちに接近し、油断していき、挙句に、北斎の波を背景に学ラン姿で表紙を飾る(南伸坊デザイン)までに意気投合する。

 そもそも、山下氏のアカデミズムへの憤懣が対談企画のきっかけのようでもある。「自分が属している世界の殻のようなものが、どうしようもなく気になりはじめて、内側からぶち壊そうとするような気分が、少しずつふくらんできたのだった」と、自らも述懐している。この潜在するマグマに、赤瀬川氏が程好く符号している。山下氏の鬱憤を煽るわけでもなく、ありのままに応じているようで、きっちり着火装置となっている。

 本書のキーワードともなっていくのだが、光琳のくだりで赤瀬川氏からポロリと漏れた「乱暴力」なる表現も、山下氏を嬉々とさせているのが覗える。「乱暴力」とは、脚注によると、「単なる荒々しさではなく、抑えきれない精神の発露が生む力強い表現のこと。多少の乱れを気にせずに引かれた一本の線などに見られる」と定義される。さりとて、「乱暴力」があれば良しという短絡ではなく、拮抗する「丁寧力」や「繊細力」への視点が鑑賞体験をいっそう立体的にしている。

 ちなみに、この二人、高い類化性能を持っている。類化性能とは、一見掛け離れた組み合わせに共通項を見出す能力のことだが、たとえば、赤瀬川氏はなんと若冲草間彌生を類化させる。鑑賞者の無意識の網が、作品を手繰り寄せ、世間的・学術的な意味に囚われない理解と快感を生み出していく例証を見る思いがする。

 売れっ子若冲については、火付け役の辻惟雄を筆頭に、数々の刊行がなされている。けれど、『日本美術応援団』は、生(ナマ)を見てみたいと船出をさせる推進力を持った異例の一冊である。長旅を終えて、今頃は京都にお戻りになったに違いない大根のお釈迦さまに、会いたくさせる一冊だ。さすがに、日本美術応援団だけのことはある。


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