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『レヴィナス―何のために生きるのか』小泉義之(NHK出版)

レヴィナス―何のために生きるのか

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何のために生きるのか。


答えは意外にシンプルだ。

だが、そのような、本書に書かれたままが、

レヴィナスの本意かどうかはわからない。

ここに描かれたのは、レヴィナスの言葉を借りた

小泉先生による「他者論」と思われる。

小泉先生によれば、レヴィナスはこうだ。

人間はいつでも何かを享受して生きている。

食べ物、機械、引きこもりなら、その狭い部屋も・・。

享受することにおいて、人はあくまでも自分のために生きている。

だから、私たちはエゴイストである。

自分の人生を享受する、幸福なエゴイストである。

病人のエゴイズムも小泉先生は肯定する。

ただ生き延びるだけでも、現に幸せに生きていると。

すると、呼吸器を享受している者の声も聞こえてくる。

享受において、私は絶対的に私のために存在する。

私はエゴイストであるが、他者に対してエゴイストであるということではない。

私は独りであるが、孤独であるということではない。

私は無垢な独りのエゴイストである。(p29)

ただ、レヴィナスの、あるいは小泉先生のいう

エゴイストとは他者のエゴを認めるのである。

他者はあるとき、エゴイストの前に公現する。

自分のために生きる私たちが、

その人のために生きたいと願う相手として。

殺す対象ではなく、肯定し分かち合う存在として

出現するのだ。

たとえ、それが「苦痛をもつ存在」であっても。

ここでは小泉先生の同僚の立岩さんによる文章が引用され

二人は声をそろえて、そのような他者の傍らで、

「精神の強度」を持つことを語りだす。

それは、選択的中絶に即して語られるのだが、

末期や不治と呼ばれる病いにも当てはまるだろう。

私たちは、彼らの苦痛をどのように想像するのか?

そのとき、実は私たちは「苦痛を凌駕する存在」を

すでに想像しているのだと小泉先生は言う。

そして、私たちにこそ「精神の強度」が

ありさえすれば、そのような他者に対峙しても、

殺すことはなく、「歓待しない理由はない」。

「いや、そうではない」という声が聞こえてきそうだ。

だが、この行(p54)に至ったとき、

私の母(何年も寝たままの病人)は、やっと救われた。

そのとき母は再び自分の<顔>と<名前>を

娘の、この私の前に取り戻したのである。

娘はそれまで、母のことを苦痛に満ちた身体、

死にたくても死ねない無駄な延命、

無念で惨めなひと、慈悲の対象、としてしか、

見ることができなかった。

だが、母は死なずに生きている。

このようにしても、

まだ生きているということは、すでに

苦痛を凌駕して生きているのである。

私がまだ知らぬ幸福のうちに。

それはまた、「私」という、

母の他者のためでもあろう。

こういえば、また批判されるであろう。

あなたたちこそ、自分勝手にそう思いたいだけだ。

かわいそうに、という声が聞こえる。

そうかもしれない。

しかし、母のこのような在り方も、

幸福な生の在り方のひとつなのだと思えるようになってから、

私は母だけではなく、その他の他者の生に対しても、

過剰に心配したり干渉したり批判したりしなくなった。

たとえば、自分の子どもにも寛容になれた。

その人のあるがままを自分とは違う生と認めて、

見守っていられるようになったのである。

私の手、私の判断が、身近なこの人たちに

常に善を成すとは限らないから。

教育も介護も同じこと。危害に通じる道でもある。

2003年、仕事帰りに立ち寄った喫茶店の本棚から

偶然手にとったこの本を、私は泣きながら読んだのだった。

コーヒーも音楽もよかったが、あの時、私は小泉義之氏に会いたいと

心から願った。(そしてそれは早くも翌年には叶うのだが)

本書では、レヴィナスも小泉調になる。

だが果たして、本当のレヴィナスは、こんなに挑発的で、

左翼的で、病人びいきであったのか・・・。

デリダもマルセルも、その他の哲学の先人も、

小泉先生の筆にかかれば、

形而下がとても気になる形而上学になる。

これは『病いの哲学』参照のこと。

ただし、やっぱり小泉先生は哲学者なので

社会学者のようにはいかない。

公共的に語らないのだ、そうだ。

(とはいえ、『「負け組」の哲学』では

相当の大声で形而下の我々に向かって、叫んじゃっているが)

たとえば、『兵士デカルト』の一節、

第四章 情念による制覇 エリザベト対デカルト

「エリザベトは哲学者が公的生活には全く無用であると示唆するのである。

デカルトはあっさり認める。デカルトは自分は「隠遁生活」を送っているから、

エリザベトに公的生活の格律を書き送ることは、

哲学者がハンニバルの前で「軍人の義務」を説くのと同様な無礼であろうと書き送る。」

(この章は、私=エリザベト、先生=デカルトのつもりで読むと楽しい)

小泉先生の「病い論」も「デカルト」も「負け組」もお勧め。

この続きは、またの機会に。


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