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『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』仲俣暁生・舞城王太郎・愛媛川十三(バジリコ)

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

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●日本の現代小説はポップカルチャーだ!

最近、小説を読まなくなったとつぶやく友人がいる。

ノンフィクションのほうがいい、いや、日記や書簡のほうがもっといい、とも言う。

歳を重ねるほど、その傾向が強くなるようだ。

若い小説家がどんどん登場していることが大きいだろう。

同世代から熱い支持を受ける小説はえてして上の世代にとって

「わからない」「おもしろくない」「読むに値しない」ものとなる。

その結果、創作作品より事実性の高い作品に荷担するようになるのだ。

ところが、何かのきっかけで「わからない小説群」に接近できることがある。

入口ナシと思っていた壁に小さなドアを発見する。

本書は私にとってまさにそのような存在だった。

さまざまな媒体に書かれた文章が収められているが、一貫してひとつのことを言っている。

それは「日本の現代小説はポップカルチャーである」ということだ。

「現代小説」に対比されているのは「近代文学」であり、

鍵のかかった部屋」とはその「近代文学」の比喩である。

「極論を言えば、小説は本来、『ポップカルチャー』だった。

ポップカルチャーとしての小説』と『そうでない小説』とに分かれていた

『近代』という時代のほうが、むしろ異常な時代だろう。」

現代小説から見れば近代文学は頑丈な鍵のついた自閉空間で、

反対に近代文学の立場からすれば、現代小説はドアなしののっぺりした部屋だ。

どちらも行き来不可能な点だけが共通している。

近代文学は、知性と教養を背景に自我の探求を展開しているのが特徴だが、

それがいつしか文学のアイデンティティーになり、

この条件が満たされなければ文学でないような呪縛が生まれた。

だが、考えてみれば江戸期には学問のない人でも本に親しんでいたし、

その証拠に一般大衆が読む草双紙がたくさん出回っていた。

それだけ文字の読める人が多かったのだろう。

ヨーロッパのような厳格な階級社会とちがって、

大衆の側に出版文化を享受する下地があったのだ。

著者によれば「ポップカルチャーとしての小説」の登場は90年代後半で、

その頃に出てきた作家の小説群がいま黄金期を迎えているという。

本書はその世代に当たる舞城王太郎古川日出男吉田修一らに

多くのページを割いており、舞城の短編作品も収録している。

ポップカルチャーという言葉はアメリカ製だが、

それの意味するものは近世の日本にすでに存在した。

水脈は絶えることなく現代に引き継がれ、

その流れのもとに上記のような現代小説が噴出したわけだ。

90年代以降の小説の書き手を著者は「ポスト・ムラカミ世代」と位置づけている。

たしかに村上春樹の登場は小説のあり方を変えたし、

その影響が日本だけでなく、世界中に広がっているのは衆知のとおりだ。

端的に言えば、大衆社会が地球的規模で拡大しているということだろう。

そういう状況下では、教養をベースにした高踏的な表現より、

受け手と同じ地平に立った地続きの表現に親しみを抱くのは当然の帰結だ。

日本のポップカルチャーの歴史は長いのだ。

振り返ってみれば、いま欧米でもてはやされているマンガやアニメ、

キャラクターグッズやおもちゃやカラオケにいたるまで、

世界に受け入れられている日本発の文化の多くはポップカルチャーだ。

かの地に娯楽性の高い大衆文化があまり存在しないゆえに、新鮮に映るのである。

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