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『神様からの宿題 』山本育海 (著), 山本智子 (著), 藍原寛子 (著), 藍原 寛子 (編集) (ポプラ社)

神様からの宿題

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「それは、みんなへの宿題」

「病気とは人生の夜の側面で、迷惑なものではあるけれども、市民たる者の義務のひとつである。この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民になる。人は誰しもよい方のパスポートだけを使いたいと願うが、早晩、少なくとも或る期間は、好ましからざる王国の住民として登録せざるを得なくなるものである。」
ソンタグは『隠喩としての病い・エイズとその隠喩』でこのように言うのだが、この世のすべての住民が少なくとも一度は経験する(終末期)というだけでなく、この世に誕生するのと同程度に「病い」が平等な体験であるのなら、「病い」はこの世界から消えるのではないだろうか。

『神様からの宿題』。でもその宿題は筆者のいっくんが、一人で片づけなければならないという意味ではない。かのアマルティア・センの恩師でインド詩人のタゴールが語っていたことも思い出されるのだが、「すべての嬰児は、神がまだ人間に絶望してはいないというメッセージをたずさえて生れて来る」というもの。つまり、すべての嬰児は「神様からの宿題」を分かちあうために生まれている。

私は以前から難病患者会のつながりで、いっくんのこともFOPという希少難病のことも知っていたのだが、一種の神がかり的な「望み」や「使命」を託されて、彼や他の難病者が誕生してきたことは疑う余地もない。彼らの存在、すなわち誰かが不公平にも負わされている苦痛や困難の遍在が、人類全体の福となる科学や倫理観を進歩させるからだ。病人は「宿題」の多くを分担させられ、苦痛を代表させられている、ゆえに神に祝福されて当然なのだ。

むしろ、悲しく思われるのは、人間社会の想像力の貧困、病いを疎んじ遠ざける社会のあり方だ。もしかしたら、神は実は車椅子に乗っていて、盲目かもしれないし、身体も変形しているのかもしれない。息も切れ切れに話などできず、病いを抱えながら連続的な思考もできないのだとしたら・・。神に似せて作られたのは、私たちがただそう呼ぶのだが、「病人」や「障がい者」のほうなのかもしれない。

現在、何百種類もの難治性疾患が克服されることなく残されていることも、次々と、重く難しい病気の遺伝子を抱え持った子が生まれてくることも、人類にまだ「希望」が残されていることの証拠だと思っている。希少疾患の遺伝子は、克服すべきものであると同時に次世代に受け継げられるべきものとして、脈々と生き延びてきたし、これからも存在していく。

以上は読後の感想というよりは、私が直接いっくんや他の難病患者との出会いによって触発され、感じたことだ。それをただ、直感的に綴ってみた。

だからまだ、「難病」と出会ったことがないあなたが、「わずかな刺激により筋肉が骨に変異してしまう」という、いっくんの身体や人生について、この本を通して知ったなら、どのような感想を持たれるのだろう。むしろ、私はそれが知りたい。


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