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『サマースプリング』吉田アミ(太田出版)

サマースプリング

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書物になることで救われるもの

 著者は「声からあらゆる意味と感情を剥ぎとり音そのものとする、超高音ハウリング・ヴォイス奏法の第一人者」である音楽家。これは、1989年、中学一年生だった彼女の経験した「地獄の一季節のドキュメント」。

  生きているのが辛いから死んでしまうことに決めた。

  だって、世界は憂鬱、退屈、つまらない。

  生きているのは面倒くさい、無意味、しょうがない。

  何もかも嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いな世界。

                     (「プロローグ」)

 団地と田んぼと畑、それにささやかな商店があるだけの名古屋市のはずれの住宅地で中学生になった「アタシ」。

 両親の離婚、母と祖母の狂気と暴力、不登校、拒食、自殺願望、自傷行為。絶望の淵で衰弱した少女のからだから漏れ出た声は人のものとは思えない「音」だった。

 さて、本書の「あとがき」を吉田はこう書き出す。

 「泣くほど嫌なことを何故、書かねばならなかったのか」

 1989年に十三歳だった彼女は今年三十一歳。そもそも、この原稿を発表する気ははなからなく、「ゴールも目的もないままで、ただ、書いて、読んで、そして思い出し、エピソードを追加して、また書いて、読んで、思い出して……という作業を密かに一〇年(!) も続けていたのだ。」という。まるで口寄せするように、彼女はながきにわたってあの年の「アタシ」に取り組んでいたのだ。

 著者にとっては読み返したくもなく、できれば封印したかったこれらのことばは幸か不幸か、一冊の本になった。私はなんども読むのをやめそうになった。本書をまえに、いまもどこかで、「アタシ」のように自らの絶望を切々と綴っているかもしれない少女たちを思い、彼女たちのことばがあふれかえっているさまを想像し、気が滅入るのだ。

 いっぽうで、こうして彼女のことばが書物としてかたちをなしていることが救いであるかのように、沈んだ気持ちがまたたくまに底をつき、するすると浮かび上がってくるようでもある。それは私が、根っから本という「もの」を愛しているせいかもしれないけれど。

 いまさらという気もするが、「文化系女子草書第一弾!」と銘打たれた本書。巻末の発刊のことばにはこうある。

 「書物は一冊だけでは存在できず、すべての本は、たがいに言葉という血を分けあっている。私たちの言葉は絡みあい縺れあっている。心底ウンザリしつつ、もう一度そこに、なけなしの希望を託す。…(略)…これら雑草の如き本も、誰かの本棚に血の繋がらない血族の位牌のように並べられるだろうか。」

 なるほど、そういうことだったのか。願わくば、本書が「アタシ」の「血の繋がらない血族」たちの手に届きますよう。

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