『ロック母』角田光代(講談社)
描かれるフリーターたちのその後
黒一色に銀文字のタイトルだけ、というロックっぽい扉を開くと、
7篇のタイトルが並んでいる。
そのうち、「ロック母」は昨年、川端康成文学賞を受賞したときに文芸誌で読んでおり、タイトルを見てそのときの感慨を思い出した。
シンプルなストーリーである。
つきあっていた男とのあいだに子供ができて、出産のために故郷の島にもどってきた「私」には、男と結婚の予定はなく、母になる自覚もなく、
しかし腹の中の赤ん坊だけは着実に大きくなっていく。
父が蜜柑工場に働きに出かけてだれもいなくなった家では、
「私」の残していったロックのレコードを母が大音量でかけている。
そんなやるせない日々の果てについに出産の日が来る……。
フリーターの生活感情やアジアを放浪する若者を描いてきた作家が、こういうものを書くようになったのかと新鮮な気がした。
行き先知れずの若者も、歳を重ねれば若いことろはちがう現実に直面する。そのあたり前のことが、当事者とおなじ立ち位置で描かれており、
人生に巡り来る時間とまっこうから付き添っていこうとしている、
作家の覚悟のほどを実感したのだった。
本書に収められた7篇には時間的な幅があって、
最初の「ゆうべの神様」は1992年の発表で、
最後の「イリの結婚式」は2007年と、実に15年分が収まっている。
作者が25歳から40歳までの期間に当たり、
それぞれの主題に切迫感がある。
「ゆうべの神様」は、東京の大学に入って早く田舎を出ていきたいと願っているグレた受験生の話。
つぎの「緑の鼠の糞」と「爆竹夜」は二十代の若者のアジア放浪もの。
寄る辺なさ、意欲の欠如、閉塞状況が濃厚で、
3篇ともダルい空気が漂っている。
それにつづく「カノジョ」「ロック母」「父のボール」「イリの結婚式」は、現実に苛立っていたり、馴染めなかったり、折り合いがつかなかったりする主人公が出てくる点は前の3篇と共通しているが、
なにかがちがっている。
作者の時間への眼差しが変化しているのだ。
前の3篇では主人公は目の前で起きていること、
いまこの時にしか関心がない。
自分を取り巻く現実に反応するだけで手いっぱいで、
人のことを思いやる余裕もない。
しかし後半の4篇には、父の死、婚約者の元彼女の気配、生まれてくる赤ん坊のことなど、「目の前に存在しないもの」、「まだ起きてない現実」に視線がむいて、想像の時空が拡大しているのだ。
作家の成長が率直に作品化されている爽やかさを感じた。
角田が書きつづけてきたのは、
その人物に成りきったように書き進める超リアルな小説世界だ。
ビジョンを持たずに生きる、社会的に「無価値」とされる若者は、
彼女の小説の中で存在を許され、認められてきた。
四十代に入った角田はいま、彼らのその後にむかっている。
歳を重ねたことを力として、
これからもリアルさとはなにかを追究していくだろう。
つぎつぎと産み落とされる作品には、作者も予想しない、
過ぎて見えてくる「時代」が刻印されているにちがいない。