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『京都文具探訪』ナカムラユキ(アノニマ・スタジオ)

京都文具探訪

→紀伊國屋書店で購入

   だって 文具売り場って

   ある種の郷愁がありますでしょう

   鉛筆の箱やノートや下じきやサインペンや

   そんなもの みているだけで 

   ときどき気持ちがピリッとひきしまりますものね

   「郷愁」と「ピリッとひきしまる」は

   ちょっと結びつかないような気がするけどね

   気持ちがあらたまるってことですわ

                大島弓子「たそがれは逢魔の時間」

 大島弓子の「たそがれは逢魔の時間」のなかで、妻が、夫の気持ちを翻弄しているらしいヒロインの少女に向かってこんな話をする場面がある。妻は少女をまえに、いささか教訓めいて話をしているふうにもみえるし、文房具がまだ身近であり、大人になったいまよりも軽やかに気持ちをあらためることができた自らの少女時代を懐かしんでいるようにもみえる。

 「郷愁」と「ピリッとひきしまる」は、たしかに結びつかないような気がするが、文房具に関していえば、このふたつの思いは両立すると思うのだ。

 気持ちをあらたにしたいとき、私もまるで儀式のように、あたらしいノートとペンを買っていたが、それもいまはしなくなってしまった。文房具にたいしてずいぶん無頓着になり、文房具屋や、書店やデパートの文具売り場に足を運ぶこともあまりなくなった。

 というのも、ワープロでなくては文章が書けなくなってしまったからなのだが、しかし、手でなにかを書きたい(描きたい)欲求というものはいぜんとして身体にのこっていると思う。手紙を書くのでも、メモをとるのでも、ただなんとなく目についたものを反古の裏に落書きするのでもいい。鉛筆やペンをもって紙にむかうことは、ストレッチをするのにも似て、ふだんの書く作業で固くなった頭と身体がほぐれていくような気持ちのよさがある。けれどもそうした振る舞いはもはや日常的なことではなく、身体ぜんたいはもちろん、手先までもが運動不足になっている。

 

 本書の著者・ナカムラユキさんはイラストレーターなので、いつも手先を動かしている人だろうし、だからこそ文房具も身近な存在であるだろう。描く仕事をしつつ、京都でフランスの雑貨を扱うショップ兼ギャラリー「trico+」(トリコ・プリュス)を営む彼女は、子どものころから、紙や文房具にとくべつの愛着をもっていたという。絵を描くことを仕事としてからは、文房具店や画材屋へ足しげく通い、旅先でもあたらしい出会いを求めて文房具店をめぐる日々。高じてはフランスや北欧を訪れるまでになった。

 そんな彼女が、ある一軒の店との出会いをきっかけに、自らが住む京都の町の文房具屋に目を向けることとなる。

 「それは、京都の通りやそこで商売を営む人々の歩んできた道を知ることへと繋がり、文房具を探ることは京都の町を深く愛することでもあった。」

 町の商店街の文房具屋をめぐり、まるで発掘作業をするかのように、その棚のすみで長年じっとしていた品々を探りあて、そっと手にとり、店主とことばを交わす。彼らがたいてい、店に埋もれた古いものを求めてやってくるお客に慣れているというのは、京都ならではというべきか。お店の人たちとのそうした交流と、京都で育った著者の思い出や京都暮らしの楽しみとともに、古いものとじっくり向き合おうとする彼女の、暮らしとものへの姿勢につらぬかれた訪問記。そこには、あまたの京都の案内本では、「歴史と伝統」というお墨付きの観光名所やお店の紹介のうしろで影をひそめてしまいがちな、京都の町のある一面がクローズアップされている。

 ガラスペン、セルロイドペン軸、クリップやはと目、カーボン紙、インク瓶、ガリ版刷りの鉄筆の替先針。色褪せたパッケージや触ったら崩れてしまうそうな箱。歳月がもたらした痛みや、積もった埃も大切に、著者の手によってふたたびみいだされ、息を吹き返した文房具たちには、ひとつひとつ丁寧なコメントが付されている。

 書く、消す、切る、貼る、複写する、まとめる、保存する。日々、パソコンの画面に向かってしているそれらの作業を、自分の手指を使ってする機会のなんと減ったことだろう。著者が読み手のまえに差し出してくれた文房具たちをまえに、そんなことを思った。

 古いものはときに、鑑賞するためだけのものとして消費されてしまいがちだが、彼女の文具探訪がそうであったように、それを目でみる楽しさはもちろん、それらに触れたときの感触や音、それを使って手を動かすことの心地よさを、本書は思い出せてくれる。

→紀伊國屋書店で購入