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『ポケットは80年代がいっぱい』香山リカ(バジリコ)

ポケットは80年代がいっぱい

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リカちゃんの80年代

 「私は、リアルタイムで『HEAVEN』にかかわり、「ゼビウス」で徹夜し、ナイロン100%で勉強してパルコの「モダーンコレクション」のステージにも上がった。というしょうもない自負心。それがどうした、と言われれば、どうもしないのだが、「わかってくれる人にだけわかってもらえればそれでいい」という排他的なその自尊心は、いまだに私も捨てられない。バブルの洗礼を受けていない80年代文化を生きていた、という感覚は、いまだに私の神経の奥深くに潜んでいて、宿主の体調が悪いときに活動を始めるヘルペスウィルスのように、ときどき突然、グニョグニョと動き始めるのである。」


 こう書かれても、「HEAVEN」?「ゼビウス」?「ナイロン100%」?「モダーンコレクション」って??? という人はたくさんいる、というよりもそちらのほうが断然おおいのでは?

 本書は、本編、中沢新一との対談「『ニューアカ』と『新人類』の頃」、「バブルより速く――長めとあとがき」の三部で構成されているが、引用したのはあとがきの締めくくりである。

 ここで香山は、さまざまな「80年代」論を引きながら、なにを持ってして「80年代的」であるとするかは人それぞれであると書いたあと、彼女にとってのそれは、バブル契機の引き金となった85年の「プラザ合意」以前の80年代だとする。「狭量で排他的でマニアックで、下世話と高貴、コマーシャリズムとアカデミズムの垣根を取り払おう、という当事者たちの姿勢は一応、あったものの、今から思うと十分に高踏的」であり、「自分たちはアンダーグラウンドにいるのではなく、時代の先端にいるのだ、というある意味幸福な錯覚だけは、誰もが持っていた」時代、それが香山の「80年代」だった。

 そのころ大学生であった彼女の「自負心・自尊心」は、私という読者にとってはじゅうぶんに有効である。著者より十年あとに生まれた私がカルチャーなるものに目ざめたとき、ここに登場する人びとのなかには、すでにそれぞれの世界で活躍している人がたくさんいたし、お店やバンドや雑誌やイベントなど、その他の名詞の数々も、すこし前の「伝説」として語られていたし、本書の帯のいうところの、「サブカルチャー勃興期の現場」と、その「おしゃれでキュートでアヴァンギャルド」な世界に憧れて青春時代をすごしてきたから。

 高校生時代から憧れていた「工作舎」に出入りするようになった香山だが、松岡正剛を信奉する周囲のひとたちとはなにやら温度差を感じ、そんなとき、山崎春美の誘いで『HEAVEN』の編集にかかわることになる。 

 編集部兼山崎の自宅である渋谷のマンションにはさまざまなひとたち――おなじく『HEAVEN』の編集をしていた野々村文宏や、町田町藏、佐藤薫といったミュージシャン、山崎のとりまきの美女たち――が出入りしていたが、彼等とことさら親密になるのでもなく、徹夜で編集作業をしても、朝になればしっかり大学の授業に出かけてゆく。

 とはいえ、大学でも、至極まじめな学生か、「クリスタル族」風の坊っちゃん嬢ちゃんたちに二分されるクラスメイトとは話もあわず、まったくなじめていない。

 あとがきでは、「バブルの洗礼を受けていない80年代文化を生きていた」ことへの、いまだに捨てきれない「自尊心」について述べ、また、サブカル誌編集と医大生、その二重生活はかなりタイトであったろうと思うのだけれど、本編では、「あのころの私ってこんな風だったのよ」的なたかぶりがない。そのころ、どちらの場所にもがっちり根を下ろすことができず、なんとなく浮いていたという、そのたよりなさが、正直に語り口にあらわれているところがいい。「長めのあとがき」なんてむしろ必要ないのでは、と思うくらいなのだけれど、これは職業柄というものなのか、どうか。

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