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『女の庭』鹿島田真希(河出書房新社)

女の庭

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 集合住宅での井戸端会議。悪口をいわれることを怖れ、そこに加わることを止められない「私」。いたって普通の主婦、と自らを見積もってみても、子供がいないため、まわりの〝母親〟たちとのやりとりに頷くそのさまはどうしてもぎこちなく、息苦しさはつのる一方である。

 ないものねだり。要するに私は恵まれていて、その上暇なんだなあと思う。なんの不満もないけれども、現実逃避したい感じ。私は何から逃げているのだろう。わからない。だけど私は夫がいなくなると、忘れていた何かを思い出しそうになる。

 「中の中くらい」の生活レベル。夫婦関係に問題はみあたらない。昼間することがなく、つい食べものを口にしてしまう「私」が太っても、夫は「きみは太っていてもかわいいよ。」と言ってくれる。落ち込んでいればやさしく声をかけてくれ、涙を流した目にキスしてくれる。けれども現状は、「私」の夫婦の理想からはかけ離れてしまっている。

 「普通の主婦」になることが憧れだった。そのために努力してきたつもりだが、一方「子供を産まなければ、普通の主婦に堕落することはないとずっと思っていた」ともいう「私」。彼女の理想の「普通の主婦」像は、「いつまでも恋人同士のよう」で、金曜の夜には「シャンパンを飲んでワンランク上の夫婦を演じられる」というお粗末な幻想である。

 あるとき隣の部屋に外国人女性が越してくる。自分とは何もかも異質なその女に「私」は執着し、壁一枚隔てて聞こえてくる音にじっと耳をすます。家事にいそしむほかは、テレビを眺めて夫の帰りを待ちあぐねている「私」は、外国女は孤独で苦しんでいるのだと根拠なく思いこみ、憎むと同時にその姿に自分自身を重ねる。

 そんな「私」の独白は、結婚前「趣味が読書」だったわりにはどこか舌足らず。字面ばかりを追って、核心に触れることなく上すべりしてゆくような、借り物のようなそのことばのつらなりがいっそう、「私」の絶望感を際立たせている。

 併録の「嫁入り前」の「私」は、表題作の「私」にもまして無知で、なにひとつ自分で決定することができず、自らの感情を把握することの下手な女である。

 「母」と「妹」の三人家族、父親はない。「私」には結婚を前提としておつきあいしている「彼」がいる。

 そして、料理の他に編み物はどう? あなたできるの?と続ける。そこですかさず妹が、彼のためにセーターを編んであげたことがあるかってことよ、とつけ加えたので、母親の顔は真っ赤になった。母親はプロテインミルクで額を冷やしながら、要するにそういうことよ、どうなの?と照れながら言ったので、妹が母親の額を指さして大笑いした。

 編み物はできないわ、と答えると母親の紅潮はやっと引いたようで、嫁入り前の娘なら、教室に行きなさいといやに真剣に言う。私はなんの教室かわからなかったので、それは編み物教室ってこと?と尋ねると、はしたない!と母親は怒鳴った。

 ふたりの娘の嫁入り資金をこつこつ貯め込む「母」、その「母」の干渉。「妹」はなにかと反抗的・批判的で、姉の「私」をさしおいていつも訳知り顔である。その「妹」に付き添われ、「私」は「教室」とやらに出掛けていく。

 それで、姉さんは教室に行くことを余儀なくされたのね、空っぽなお姉さん。妹は意地悪な笑みを浮かべたが、私はそれに腹を立てるどころか、教室へ行くことを自らの意思で決めたのではない、という彼女の鋭い視点に感心した。

 妹は、私はいいわ、あんな、人のこと平気で侮辱する人、我慢できないもの、…(略)…でも姉さんは入学したらいいわ、どうせお母さんの言うことには逆らえないんでしょう?と冷笑する。私は黙り込んで、先生が侮辱的であったかどうか考えたけれど、覚えがなかった。すると妹が私の様子を見て、ごめんなさいね、お母さんに逆らえないなんて言ってしまって、と詫びた。私は、お母さんに逆らえないというのは、妹にとって恥ずかしいことなんだと納得した。

 結局「私」と「妹」は、〝姉妹コース〟というカリキュラムを選択し、そろって教室へ通いだす。教室の「先生」はそこで姉である「私」を〝語らない女〟、「妹」を〝語る女〟と区別する。そしてそれぞれが役割分担をすることがいかに大切であるかを説く。

 妹が気を遣って、姉さんいいの? 語ることが赦されないのですって、と心配したが、私は、構わないわ、土偶のように押し黙っていたいのよ、と答えた。

 私は不思議に思った。語ることも、誇ることも赦されていないのに、勇気がわいてくる。私は泣くまい。土偶は大量生産され、誰が誰なのかわからなくなるだろう。そして最後にはいらなくなって、木っ端みじんになるだろう。

 「妹」=〝語る女〟は「先生」の教えにしばしば意見し、「母親」に反抗し、「彼」とも対等な口をきく。しかし〝語らない女〟=「私」には、「妹」がわかっていてあたりまえであるらしいことが、いまひとつびんとこず、また思ったことをすぐ口にだすことがない。ただ「私」より賢い「妹」のことばに感心するばかりである。

 すると母親が唐突に、本当に私たちは似ているものねえ、と呟いた。私は驚いて、妹は似ていると言ったけれども、そこにお母さんを加えると言った覚えはないわ、と反論してやりたかった。すると妹のほうが、確かに姉さんの言うとおりだわ、私と姉さんは不完全ながらどこかでまだ繋がっているけれども、お母さんとはもう切れたって感じがするわ、と言い放った。

 妹はどうして怒ったり、それを露わにしたりできるのだろう。私にとって怒りというのは、雑巾の上に載せられた氷のようだ。怒った瞬間、吐き気を覚える感じがするが、すぐに消えてなくなり、雑巾に吸収されてしまう。私の怒りは心の雑巾に蓄積されているのだろう。彼に口の上に鬚が生えている、と言われた時もそうだった。怒りは消えてなくなった。だけど怒りが蓄積されたこの雑巾を絞ったらどうなるのだろう。きっと牛乳を拭いた雑巾を絞った時のようにおぞましいにおいがするのではないか、私は雑巾を絞る日を恐れた。

 「私」が、「彼」が「妹」と浮気をしていても嫉妬しないのは、ふたりがそもそもひとつであるからに他ならない。〝語らない女〟と〝語る女〟は、本来はひとりの女に共存するはずのものなのである。女は、時と場合、運や縁、あるいは自らの裁量と実力に応じて、そのふたつのあいだの、どのあたりを選択し採用するかをつねに強いられているのだろう。

 前回とりあげた『女装する女』に展開されていた、こんにちの女が纏うさまざまな文化コードが剥ぎ取られたかのような、のっぺりとまるはだかの〝語る女〟と〝語らない女〟。記号化され、分裂させられたふたつの「女」が〝教室〟で学ぶのはだから、「料理」でも「編み物」でもない。そこで行われるのは、〝語る女〟と〝語らない女〟の役割分担を説く「先生」との、結論のみえない奇妙なやりとりなのである。


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