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『寺山修司のいる風景 母の蛍』寺山はつ(中央公論社)

寺山修司のいる風景 母の蛍

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 先だって逝った一人息子を、母は誕生のその日から回想する。


 その頃、東北あたりでは病院で産む習慣はなく、みんな自宅で産婆さんに助けられて産むのがふつうでした。このときは私の祖母が青森から手伝いに来てくれていて、出産のまぎわ夢中で苦しんでいる私に、自分の腰ひもにしっかりつかまりなさいと、手ににぎらせてくれたのです。産み落としてほっと楽になったとき、祖母が、「やれやれ、引きずりまわされて腰ひもが切れてしまったわい」と笑ったので、みんな息づまるような緊張がやってとけて、ほっとしました。

 お気に入りのコウモリ傘をいつも持ちあるいていた三歳のころ。大空襲のなかをふたりして逃げ回ったこと。戦死した父親の葬儀のとき、「今日は少年倶楽部の発売日だから」と、遺骨をもったまま葬列をはなれて本屋に駆け込んだこと。

 戦後、父亡きあと、生活のために懸命に働く母。中高生時代、九州へ単身転勤した母と青森の息子は、ほとんどはなればなれの生活である。

 私は毎日仕事の帰りひきよせられるように海岸まで足を運びました。この海のむこうの本州のはずれまで行かなければ修ちゃんに会うことが出来ないのだ、私はなぜこんな遠くにいるんだろうと、海を見ながらさめざめと泣いたものです。はじめの一年ぐらい、ほとんど毎日、私の日課のように……。

 大学入学のために上京したとき、母はようやく息子のいる東京に移り住むことになるが、病気になった息子の長い療養生活のため、ここでも母は働きづめの日々であった。

 やがて「修ちゃん」は「寺山修司」となる。本の出版、脚本家デビュー、劇団のたちあげ、映画制作。その仕事のことはなにもわからず、息子にかんする情報はたいてい、周囲の人間から聞かされるという生活。結婚さえ、そうであった。

 そんなとき、ある週刊誌から電話がありました。「寺山さんが杉並の永福町に新居を持ったそうですが、場所はどの辺ですか」と言うのです。しかし、私は知りません。曖昧な返事をしてその場はやり過ごしましたが、それで初めて、二人が永福町にいることを知りました。

 しばらくして、今度は昔、修ちゃんに馬を書いてくれた青森の竹内さんから「ケッコンオメデトウ」の祝電がきました。いつ、どこで、結婚式を挙げたのか私は知りませんでした。

 その後山口さんが、修ちゃんの結婚式のことが出ているといって週刊誌を持ってきましたが、私は見ないで返しました。もう私とは縁のない人だと思うことにしましたから……。

 寺山修司のパートナーだった九條今日子の『ムッシュウ・寺山修司』には、結婚を許さなかった姑のことが書かれてある。妻の前だけでは母親のことを「あの人」と呼び、母離れを望んだ息子。息子のために生きつづけ、それだけが生きがいの母。程度の差こそあれ、こうした親子の関係はどこにでも転がっているものだが、息子の結婚式を週刊誌で知るというエピソードを、母親の側からこう淡々と書き連ねられると、「母親」というものの強さと恐ろしさがじわじわとせまってくる。

 ようやく共に暮らすことができても、忙しくとびまわる息子とはほとんど顔を合わせることもなく、ゆっくりと話をすることもない生活。そんななか、ときおり共に食事をしたり、プレゼントをされたりといった思い出を繋いでゆくと、あまりにも早いその死が訪れてしまう。

 その後に起こったことは、悪夢としか思えません。そんなことは信じたくも見たくもありませんでした。そんなことが起こるはずがない。みんな嘘で、修ちゃんの演出で、みんなは芝居をさせられているのだと思いたいのです。今でも固くそう思っています。

 「109」の前で、ニコニコ手をふって別れるとき、あと二日で帰ると約束したのです。私は修ちゃんの約束だけを信じています。仕事の都合で、突然外国へ行ったのかもしれませんし、私は修ちゃんの約束だけを信じて待っています。

 修ちゃんの仕事が生きているかぎりは、修ちゃんが亡くなってしまうなんて絶対ありえません。

 「修ちゃんの仕事のことはわからない」といいながら、こういうことをするりと書けてしまうのが親というものなのだろうか。「母とは無限のドラマ」と、その作品に「母」のイメージをくりかえし登場させた「寺山修司」の虚構性は、ゆるぎのない現実である母・寺山はつの平明で素朴な筆致のなかで、いまひとつのドラマとなるようだ。

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