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『女三人のシベリア鉄道』森まゆみ(集英社)

女三人のシベリア鉄道

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 与謝野晶子宮本百合子林芙美子。かつてシベリア鉄道に乗って旅をした三人の女たちの行程を追って著者は列車に乗り込んだ。

 晶子が目指したのは、夫・鉄幹の滞在するパリ。明治四十五年、当時三十三歳の晶子は七人の子の母。かつて師であった夫をしのぐ名声を得、仕事に家事に育児にと息つく間もない生活だった。一方、仕事もなく、すっかり生彩を欠いていた夫の洋行は、そもそも妻の思惑による。著者は晶子のこんな歌を引く。

 海こえて君さびしくも遊ぶらん逐はるるが如く逃るるが如く

 自らがお膳立てしておきながら、日本をあとにする夫の姿をこうあけすけに詠みあげた晶子。平出修宛の書簡にはシベリア鉄道に乗って夫を追うことを「暴挙」と書きながらも、子どもの世話を義理の妹に託し、半年まえに見送った夫を追って旅立った。それほど独りでいることが絶え難かったのだ。

 「結婚十一年目にして、夫に対しそれほどの情熱があったとは。」たしかに、子どものことのほうが気がかりなのが、結婚して十年も過ぎた女にとってはふつうなのだろう。夫、しかも満足に働きもしない男のために「暴挙」にでる、その身勝手さと熱情には恐れ入る。著者は晶子をこう評す。

 ……なんといっても、その多産、作品の量と産み育てた子どもの数に圧倒されてきた。いかにも強そうなからだ。消え入るような声に似合わず人のことをまったく気にしない、自己本位の人である。子どもにとってはいつもうわの空のお母さんであったらしい。確かに着物を縫って早いが雑、というのが娘の評である。そんな晶子でもシベリア鉄道の途上ではパリの夫と残してきた子どものあいだで引き裂かれる。産むこと、育てること、母性とその責任、こうしたことへの対処の仕方が、やはり子どもを持つ自分にはとっても面白いのであった。

 百合子と芙美子にも、それぞれ旅のわけがあった。それは自然、旅人の生きかたを照らしだしている。

 著者にとってもそれはおなじではないか。「学生時代にこれに乗って欧州へ行くという夢を果たせなかったこと」が、シベリア鉄道への関心を持続せしめたのだと書くが、近代文学史上で大きな仕事をなした三人の女たちへの思い入れがあってこそ、著者は列車に乗り込んだのだろう。

 晶子、百合子、芙美子。寝台に揺られながら、彼女たちの残した旅の記録、旅によって生まれた作品を繙き思いを馳せ、滞在地ではゆかりの地を訪ねあるく。

 三人の女たちがした旅と、その旅が映しだすそれぞれの生き様に触れながら、しかし著者の旅はただの文学散歩ではおわらない。車中で出会った人びととの交流。通訳のため同行した大学院生(ウラジオストクミンスク間ではロシア人のアーニャさん・芙美子の通った大連―ハルピン間では中国人の柳さん)とのやりとり。彼女らの故郷で家族たちと共に過ごした時間。エカテリンブルグでのダーチャ体験。長春では、柳さん一家とともに満州国時代(現地では「偽満州国」と呼ぶ)の建築を見てまわる。ふたつの家族たちの歴史から、ふたつの国の歴史を体感する。

 かつての女たちのように、「旅するわけ」のみあたらない私にとっては、こうした著者の体験のほうが、旅心をよほど刺激されるというものだ。

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