書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ゆびさきの宇宙』生井久美子(岩波書店)

ゆびさきの宇宙

→紀伊國屋書店で購入

福島智という、盲ろう者の奇跡を描いたノンフィクション」

 目が見えない。耳が聞こえない。「盲ろう」の当事者、福島智の評伝ノンフィクション。福島はバリアフリーについて研究をする東京大学の教授です。
 

 「もうろう」とキーボードでうちますと、変換される言葉は「朦朧」。広辞苑で検索しても、該当する言葉はありません。

 日本では「盲ろう」という人たちは、存在しないことになっている、と言っても言いすぎではありません。

 4歳で右眼を摘出。9歳で失明。18歳で聴力を喪失。盲ろうに。

 目が見えない、耳が聞こえない、盲ろう生活を28年。

 盲ろうとはどういう状態なのでしょうか。

 目を閉じてみてください。瞬く間に漆黒の暗黒の世界がやってきます。

 耳を塞いでみてください。沈黙の世界に立つことになります。

 福島は、暗黒と沈黙の世界の住人なのです。

 外界からのコミュニケーションが遮断されている。絶対の孤独の世界。

 福島は、この状態を「未知の惑星に不時着した宇宙人」とたとえています。暗黒の空間に放りだされたひとつの生命体として生きている。眼からも耳からも、生命の営みを目撃できない、聞き取ることができないのですから。この絶望的な状況からどうやって脱出するか?

 発狂するようなコミュニケーションの孤絶から救ったのは、母が思いついた「指点字」でした。

 福島の両手に、母が両手を重ねて、点字を打つことで、コミュニケーションの闇から福島は解放されたのです。

 盲ろうの当事者は、日本国内に推定で2万人弱。福島のように、盲ろう当事者として元気に活躍している人はほとんどいません。福島は、盲ろうの世界の超人なのです。アジアのヒーローとして、海外の雑誌で、ニューヨークヤンキース松井秀喜と並んで紹介されたことも。

 

 世界で一番恵まれた盲ろう者福島智

 三重苦のヘレン・ケラーの正当なるアジアの後継者。

 私は、福島をそう思っていました。苦難はあるけれども、福島ならば乗り越えられる、と。

 しかし、そうではないのです。彼も普通の生身の人間。過労、ストレスから「適応障害」になります。

 取材に応じた主治医は、盲ろうの当事者というアイコンとして振る舞わなければならない、という役割のなかで生きるということが福島を適応障害にさせた、と言います。「福島智」であることに、本人が疲れてしまった。

「パイオニア的な役割を背負う羽目になって、私はまったく面白いとは思わない」

 と責任を果たして生きる意味を語った後に、「でもそういう感覚はかなりの人にあるのだと思う。生きることはしんどいことだし」と、福島は俯瞰する。

 

 自分の立場が特別であるということは知っているが、同じように他人も特別なのだと理解する。そして、やるべきことをやっていく。

 暗黒と沈黙の住人である福島は、神の存在を感じることがある、と言います。

 盲ろうにしたのも神ならば、何かの使命を与えたのも神。

 神が何を考えているのかはわかりませんが、福島という人がこの世界に生きている。それは奇跡である、ということが本書によって理解できます。

 究極の孤独で、生きるとはこういうことなのか?

 久しぶりに何度も泣きながら読んだノンフィクション作品。生井久美子の見事な仕事です。


→紀伊國屋書店で購入