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『TOKYO一坪遺産』坂口恭平(春秋社)

TOKYO一坪遺産

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 はじめてパリに行ったとき、その街並み、建築はもちろんだが、ああ、西洋だなあ、としみじみ感じたのは、建設現場のありようを見たときだった。ちょうどルーヴル美術館が「グラン・ルーヴル・プロジェ」、ミッテラン政権下の大再開発の真っ最中だったのだ。館の入り口に辿りつくまでに、改築現場脇の殺伐とした通りを長々と歩かなくてはならなかったのだが、その広大さと、仕事をしているのかいないのか、なんだかやけにのんびりしているようにみえる現場の人たちの様子をみて、ここでは百年も二百年も先までもつ建築物を造ろうとしているのだなあ、年中、壊したり建てたりをくりかえてしている日本の都市の建設現場とはずいぶん趣がちがう、と妙に感心した。その直後の日本では、メセナという言葉がやたらと飛び交い、美術館がうようよと建った。あのバブル期の建設ラッシュ、今はさすがにおさまった感があるが、それでも新しい美術館は今なお建てられているし、街に普請中のシートが途絶えることはない。


 建築家になろうとして、建築を勉強したのに、「大規模な現代建築を設計する建築家に疑問をも」ってしまったという著者。

 空間の大きさと心地よさは比例しないと僕は思う。欠如を実感し、それを補うためのあたらしい視点というものが生まれるのであれば、たとえどんなに狭いところだろうがそこで楽しむことができる。人間は本来それができる生物なのではないか。

 これから必要なのは、広い空間、巨大な建築ではなく、広く、壮大に感じることのできる感覚と、そして小さな建築である。

 そう書く彼の原体験というべきものは、子供の頃、兄弟三人と使っていた六畳一間の、自分の机とその周辺のわずかな空間を、いかに快適で、プライバシーを守れる場所にするか、という子供時代の工夫である。

 彼はまず、机と椅子の背に画板を渡し毛布を被せ、下には布団を敷いた。なかには電気スタンドを入れ、そうして机の下にもぐり込み、椅子の座面をテーブル代わりにマンガを読んだりごはんを食べたりしていたのだとか。

 宇宙船のコックピットにいるみたいにわくわくできたその「机の家」のことをずっと忘れずにいた彼は、新しく建てることによって空間を生みだすことよりも、もともとある空間を捉え直し、工夫することで、新たな空間を作りだす方法をとろうと決める。

 そうした視点から、東京の街を歩き回り採集したのが「一坪遺産」である。たとえば、ジャッキで上部がのびる仕掛けの宝くじ売り場の小屋。東京駅の靴磨きのおじさんの仕事場。隅田川沿いの0円ハウス。自宅玄関周辺はおろか、そこに駐車している自家用車の上にまで植物の鉢を溢れさせ、通りを行く人の目を楽しませている、おそるべき「緑のゆび」を持つ夫婦。フリーマーケットのはしっこで、ホームレスの人たちが出している、ブルーシートの上の無意識芸術のような物品の羅列。

 それだけでなく、豆本やミニチュア作りにその人生を捧げる人。あるいは、色川武大狂人日記』で幼少期の主人公が繰りひろげるカード式紙相撲の、精密かつリアルな世界観。子供のころ、ドラクエⅢのコンセプトをそのまま大学ノートに移しかえた「ペーパーファミコン」で遊んでいたという著者はこれにいたく感じ入る。

 僕にとって、本というのは、知識を得るためのものというよりも、むしろ旅行に近い。古本屋の本棚を見ている時、小さく圧縮された無数の空間が陳列しているように感じてしまう。僕たちは何も遠くに飛行機に乗って出掛けなくても、紙の上の文字さえあれば、無限の空間を手にできるのではないか。

 こうして、著者の空間の見直しと発見は外の世界にとどまらず、脳内にまでおよぶ。どうやら、この人の創造力、あるいは想像力には、空間の把握とその使われかたの工夫がいつでもついてまわるのらしい。

 小学生時代の思いつきと工夫の精神を、長じてのちも採用しつづけることによって生まれた本書は、ヒトの創造や表現や仕事についての再検討を促すたいへんに二十一世紀的な一冊なのだと思う。


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