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『百日紅』杉浦日向子(ちくま文庫)

百日紅

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 「本郷もかねやすまでは江戸の内」


 住まいにほど近い本郷三丁目の交差点、その角にある洋品店「かねやす」の店先に掲げてある川柳である。これによれば、現在の私の暮らす地域は、かろうじて江戸の町に含まれていたことになる。上り下りの激しい文京区のなかで、平らな地面のひろがる本郷台地の一角は武家屋敷が立ち並び、それより北側は田圃のひろがる、都市と郊外の境目であったのだ。


 そんなふうに自分の生活圏を眺めはじめたころ、本の山のなかから杉浦日向子のマンガ数冊を引っぱり出し読みふけった。われながら単純な、と可笑しくなるが、私の江戸理解は、この人のマンガにおおくを負っているから、それをもういちど確かめてみたくなったのだ。


 その代表作が、著者二十代の筆であることに今さらながらに仰天する。絵の巧さ、話の面白さ、そして、著者の眼には江戸というものがありありとみえていたのだろうなあ、としか言いようのないあの空気感。杉浦日向子のマンガの画面には、江戸時代のおいしい酸素が充満している。


 『百日紅』は北斎とその娘のお栄、弟子の善次郎(のちの渓斎英泉、著者が彼にどれほど熱烈に恋していたかは、この物語の全編からひしひしと伝わってこよう!)の三人をとりまく物語だが、彼らはたびたび、今のわたしたちの常識では考えられないような目に遭う。


 北斎は、常人にはみえないものがみえていた人なのではないか、と思わせる絵師だけれど、このマンガのなかでも、現代科学の常識では説明のつかない体験――死人ががばりと起き上がって動いたり、物の怪があらわれたり――をたびたびしている。著者はそれを、ついこのあいだ聞いたばかりの友達の噂話みたいに、あるいは実際にその場にいてみてきたかのように描いてみせる。


 東京へやってきて半年。時間がゆっくりと流れている京都にくらべ、街ゆく人たちがいつも忙しそうな東京は、まるで外国の街のような気がしていたが、杉浦日向子のマンガを読んだあとには、ちがった眼であたりをみまわせるようになったと思う。


 どんなに大きな変貌を遂げようと、北斎の生きた時代からつづいているのであろう、ある気配を東京の町に感じるようになったのはそのせいだ。これまで暮らしてきた京都は千年の都であるし、この地で生きてきた人々の営みの積み重なり、都市そのものに染みついた記憶というものはもちろんあるにはちがいない。それよりももっと強いなにものかに、東京は覆われているような気がする。


 それを、霊気、などと言ったらオカルトめくだろうか。けれども、オカルトというのは人知を超えたなにかなのであって、科学というものがひとまず信じられているからこそのもの、近代のものだ。杉浦日向子が描いているのは、江戸はこうだったんだよ、というただそれだけのこと。そこには理屈はないから、すとんと合点がいってしまう、江戸ってそうだったんだなあ、と納得してしまう。


 江戸に関するエッセイをまとめた彼女の本によれば、江戸っ子の生息地域は、「神田川の南、千代田城の東、隅田川の西、江戸湊の北、の東西に細長い一帯の、裏通り」なのだとか。なんとまあ、狭い範囲にたくさんの人がひしめいていたことだろう。そして、密集して暮らす彼らのすぐ隣にはなにやら得体のしれないものたちもうごめいていただろう。私の感じる東京のある気配とは、そうしたもののなごりなのだと思う。その気配を意識しつつ、かつてのお江戸の末端から、千代田城の東あたりをうろつく私なのである。


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