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『臍の緒は妙薬』河野多惠子(新潮文庫)

臍の緒は妙薬

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 四つの短編が収められている。


 表題ほか二編はそれぞれ、一風変わった物事にとらわれ、それを追求しようとするあまり、少々常軌を逸した行動にでる女性を描いた物語だが、巻頭の「月光の曲」だけは他とはかなり趣がことなる。 

 「月光の曲」とはベートーヴェンピアノソナタ第14番のこと。この曲にまつわるエピソードとはこうである。

 ある夜、ベートーヴェンが友人と散歩をしていると、ある家から自分の曲を弾くピアノがきこえた。弾いているのは盲目の少女だった。少女はかたわらの兄に、演奏会に行きたいと訴えるが、貧しいふたりにとてもかわなぬ望みである。それをききおよんだベートーヴェンは、兄妹の家に入っていき、名乗ることもなくピアノを弾く。そのときに生まれたのがのちに「月光の曲」と呼ばれるソナタだった。

 この物語は、尋常小学校六年生の「小学國語讀本」に載っていたもので、作品中にはそれがまるまる引用されている。

 先生が、感想を問われた。男子のひとりだけが手を挙げて、「この挿絵が色刷りであったらと思います」と言った。――その学年が入学する年から改訂になった国定の國語讀本は挿絵が初めて色刷りになったことでも当時話題になったものだが、僅かの間に時代が変わって色刷りは二学年用の本までで中止となったのだ。

 数日後から、お昼の時間に校内放送で「月光の曲」が流れるようになった。

 お弁当をすませた子供たちが殖える。騒々しい運動場や雨天体操場で、「月光の曲」は健気に鳴っている。そんな中でも、三日目ともなると、その曲をいくらかでも聞き馴染んだ子たちがいるようだった。盤がひっくり返されるのではない曲の小さな途切れ目で、ボールを投げつけざま「ここから好きなんだ」と言う子がある。もう一度ひっくり返されてからの曲に合わせて「わたし、妖精」と妙な踊りをしてみせて友だちを笑わせている子もあったりする。

 「月光の曲」にえかがれるのは、日中戦争開戦時の尋常小学校の子どもたちである。1926年(大正15)生まれの作者はこのとき小学五年生だった。

 街中の学校の校舎の様子、教室の机のならび順、朝の朝礼を知らせるサイレン、小使の小母さんの鳴らす鐘の音。

 運動場には、すでに全校の子供たちが整列しています。遅刻しそうになって教室へランドセルを置くなり階段を駆け降りてきたり、おしっこに一っ走りしてきたりした子も、うまい具合に列のなかに納まっています。各学級の列の前には、それぞれ担任の先生。列をはずれたところに、唱歌の先生、図画の先生、お裁縫の女の先生。鐘の響きが消えると、正面の壇の近くにおられる教頭先生の「気をつけ!」の号令で、列の子供たちがしゃんとする。校長先生がとんとん壇を踏んで、壇上に立たれると、「礼!」の号令が子供たち全員がお辞儀。そして「休め!」の号令が左脚を斜めに開いて、休めの姿勢になったところで、校長先生がその時々の訓話をされます。

 五年生のなかには、校長の山村先生のことを、小学校にあがる前から知っている子がいる。山村先生は市立の幼稚園にも時々お話をしにきていたからだ。

 今の五年生がそこの幼稚園の最年長組だった都市の夏休みまえにも、山村校長が見えたことがあった。集められた園児に話しをされたのは、花房はすっかり萎え縮んでしまい、蔓葉の繁った藤棚の下だった。お話には〈まんしゅう〉とか〈まんしゅうこく〉とかいう言葉が幾度かあった。

 「今の五年生」とは、この物語のはじまる時点、つまり、日中戦争がはじまった昭和12年の作者の学年である。その「今の五年生」が小学校に入学したのは昭和8年。先述の国定教科書、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」や「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」でおなじみの「小学國語讀本」が改訂され、色刷りに変わった年である。

 この年は、皇太子殿下が誕生した年でもある。翌年昭和9年の春には、小学校の創立六十周年の記念行事があるが、書方の展示場に貼り出された条幅の言葉はすべて〈皇太子殿下〉で、学芸会ではプログラムの最初に皇太子殿下御誕生の奉祝歌をみんなで合唱するのだった。

 また、この年の秋にやってきた台風は大暴風雨となり、早めに登校してきた一部の子たちは教室に取り残され、小学校の隣の幼稚園の校舎がつぶれてしまった、室戸台風である。

 山村校長は、朝の話で満州へ行った兵隊さんの話をよくするようになり、そうこうするうちに日中戦争が開戦、小学生たちの暮らしも変わる。

 学年毎に、交代で神社に武運長久祈願のお参りに行くことになる。同級生の家から戦死者がでる。子どもたちは「少国民」と呼ばれ、その体位向上のために休み時間に「肝油」を飲まされたりする。綴り方の時間には戦地の兵隊さんに慰問文を書く宿題がでる。五年生ともなれば、上の学校に進むために受験勉強にいそしむべきだが、その頃は、勉強よりも体力で、受験勉強はほどほどでいい、という雰囲気になり、受験シーズンを考慮して、6月に設定されていた修学旅行も秋に変更となる。

 物語の最後は、六年生になった作者たちが修学旅行へ出発する場面である。行き先は伊勢神宮である。伊勢行きの電車の出発駅まではバスで行くのが通例だったが、戦争の影響で、バスの調達ができなくなっていた。

 作者は、あるときは小学五年生の目で校内の様子や校長先生の話を描きだし、あるときは現在の目で当時を回想しているようで、それが文体にもあらわれている。

 「~でした。」「~ます。」とされる前者では、当時の小学生の学校生活が生き生きとうつしとられているが、「~だった。」とされる敗戦後60年の大人の目は、子どもたちの生活が差し迫る時局に応じて移り変わってゆくさまを追っている。

 文体の切り替わりには厳密な法則はない。また、文体の違いを方法として意識的に採用してようにも見えない。しかし、どちらか一方に統一することのできなさというものが、この回想にリアリティを与えているのだと思う。

 「月光の曲」が校内放送されたのは、わずか三日間だった。

 四日目、お弁当を開く時間が来たが、スピーカーはもう鳴らない。一組で、男の子が「今日は何だか変な気がするなあ」と言った。その舌足らずの一言には、大まかに推測しても、「淋しくなった」というほどの気持ちが想われる。平林・松永の両訓導にお伝えしたく思います。

 平林訓導とは担任の先生、松永訓導とは音楽の先生。ふたりによって、「月光の曲」の校内放送はなされたのである。作者は、敗戦後60年の目で、校内放送のない四日目の昼休みとふたりの先生の心づかいを思っているのだ。それが、最後の一文にあらわれている。


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