『ミモロジック―言語的模倣論またはクラテュロスのもとへの旅』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)
井上ひさしの『私家版 日本語文法』に「n音の問題」というおもしろい説が出てくる。英語のNo、not、フランス語のNon、ne、ドイツ語のNein、nichit、日本語の「ぬ」、「ない」のように否定や拒絶の表現はなぜか n音が担うことが多いが、これは n音が唇を閉じたり、舌を歯の裏に持ちあげて口腔を閉鎖し、呼気を外に出さないことによって生じる子音だからなのだという。口腔閉鎖→心の閉鎖というわけだ。
井上は英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ヨーロッパ諸語の共通点を洗いだして作られたエスペラント語と範囲を広げていくが、当てはまらない言語も多いと指摘し、日本語とインド・ヨーロッパ語族の一部の語派の間の偶然の一致とおさめている(ウェイドの『5万年前』によるとジョーゼフ・グリーンバーグはインド・ヨーロッパ語族とアルタイ諸語などを包括したユーラシア大語族説を想定し、この大語族ではnが否定、kが疑問をあらわすとしているということなので、もしかしたら偶然の一致ではないのかもしれない)。
現代の言語学は音と意味の間につながりはないとする恣意性の原理を大前提にしており、「n音の問題」のような心理的語源論はすべて錯覚ということになる。
しかしそうはいっても妹の死を悼んだ宮澤賢治の『無声慟哭』には2行に1個という高頻度でn音が出現するのに対し、「雨ニモマケズ」には30行に7個しか出現しないという井上の論旨は妙に生々しく感じられる。われわれは音と意味の間には必然的なつながりがあるという思いこみをもっているらしい。
ジェラール・ジュネットは言葉は物のありようを反映するように形成されたとする立場を
ミモロジスムの嚆矢はプラトンの『クラテュロス』だが、同時に反ミモロジスムの発端でもある。ソクラテスはこの対話篇で物の名は物の本性を反映した物だとするクラテュロスと対話するだけでなく、物の名は本性とは無関係に慣習によって決まるとするヘルモゲネスとも対話しているからだ。
現実が一つである以上、物の本性を完璧に反映した言語はただ一つしかないが、ヘルモゲネスは複数の言語があるという相対主義によって唯一真性の言語という主張に反対する。
プラトンはソクラテスにヘルモゲネスとクラテュロスの双方をやりこめさせ、どちらが正しいとも決めずに対話篇を終えている。プラトンはヘルモゲネスとクラテュロスどちらの立場をよしとしたのか古来論議になっており、現代の註釈者はクラテュロスの背後にヘラクレイトスを見ているということだが、ジュネットはソクラテスがクラテュロスに反対しているのはすべての物が正しい名をもっているとする点であって、物は本性を反映した正しい名で名づけられるべきだとするクラテュロスの価値観自体は否定していないことに注目する。現実の言語が物の本性を十分反映していないなら、より反映するように言語を変えようという立場がありうるだろう。物と言語の間にズレがあるのはミモロジスムが間違っているのではなく、現実の言語の方に欠陥があるからだというわけだ。ジュネットはそのような立場を第二次ミモロジスムと名づけ、本書の後半で詩学の根本原理として考察していくことになる。『クラテュロス』はミモロジスムと反ミモロジスムのみならず、第二次ミモロジスムを先取りしている点で夢想の言語史の発端に位置するテキストなのである。
ミモロジスムの夢想というか妄想は単語のレベル、音素のレベル、文字表記のレベルで展開され、あきれるような話が次々と出てくるが、一番驚いたのは語順のレベルのミモロジスムで、これは新旧論争に係わっていた。
古代崇拝のルネサンスが終わり本格的に近代がはじまると、近代人は古代人に匹敵するのではないか、いや近代人の方がすぐれているのではないかという主張が生まれ、古代人の方がすぐれているとする古代派との間に論争が起こった。言語においてはフランス語とラテン語の優劣論争が起り、その過程でフランス語はもっとも明晰な言語だというフランス語至上主義が確立していったが、争点となったのは語順だったのである。
ラテン語は語尾の屈折によって文法的地位をあらわすので語順は自由だが、フランス語は動詞以外の屈折をほとんど失い、「主語-動詞-目的語」のように語順で文法的地位をあらわすので語順が固定されている。
近代派の論者はフランス語の語順こそが思考の自然を反映したものだと主張する。語順的ミモロジスムである。ラテン語の学習では漢文の読み下しのようにラテン語の文をフランス語の語順に並べかえることもおこなわれていて、これを「構成する」と称した。そしてローマ人もフランス人と同じ語順で思考していたと決めつけ、「フランス人は自分たちが思考するとおりに話すが、ローマ人は思考するのとは別様に話す」とか「キケロ、そしてあらゆるローマ人はラテン語で話す前にフランス語で思考していた」などと称していた。ベイカーの『言語のレシピ』によれば「主語-動詞-目的語」型の言語は全世界の6000の言語のうち2500ほどしかなく、普遍的でもなんでもない。フランス語の明晰性とはこういう妄想が根拠だったのである。
インド・ヨーロッパ語族が発見され比較言語学が確立するとただ一つの完全な言語というミモロジスムの大前提が説得力を失い、学問の場面からはミモロジスムは姿を消す。代わりに台頭してきたのが民族精神である。言葉は現実を模倣しているかどうかではなく、民族精神を反映しているかどうかが問われるようになったのだ。
一方、文学の世界ではミモロジスムは生き残り、詩学を陰に陽に支配しつづける。近代への橋渡し役となったのはマラルメだが、マラルメのミモロジスムに対する係わりは素朴な面と意識的な面がある。
まず素朴な面である。
- bは大きさないし丸さを意味する。
- pは積み重ね、停滞、ときには激しく明確な行為をあらわす。
- fは強くしっかりとした締めつけをあらわす。flは飛翔を、またそこから修辞的な転位によって光、流れをあらわす。frは戦いないし遠ざかることをあらわす。
- gは欲望をあらわす。glは満たされた欲望を、またそこから喜び、光、滑らかさ、増大をあらわす。grは欲望された対象の獲得、押しつぶすことをあらわす。
自然発生的なミモロジスムをそのまま信じこんでいるのである。こんな参考書で勉強したら試験に落ちること請けあいだが、クリステヴァは『詩的言語の革命』第二部で『英語の単語』を解読格子にして「散文 デ・ゼッサントのために」の音素レベルでの解読をおこなった。ジュネットはクリステヴァとは名指さないものの「マラルメの詩編に『英語の単語』で述べられた象徴的な諸価値を当てはめようとすることほど、彼の「無意識下の」詩学に反することはない」とその種の試みを斥けている。
一方、「詩の危機」では言葉は対象を反映してほしいが、まったくそうなっていないと不満を書きつけている。
矛盾したことに、jour(昼)に暗い響きが、nuit(夜)に明るい響きが当てられているという倒錯には、まったく失意を禁じ得ない。輝きをあらわす言葉にはきらめいたものであって欲しいし、逆の場合にはくすんだものであって欲しい。少なくとも明暗の単純な交替に関してはそう願いたい。ただしもしそのとおりになったならば、詩句は存在しなくなるであろうということを認識しておく必要がある。詩句は言語の欠陥を哲学的に補う高次の補完なのだ。
マラルメは自然発生的なミモロジスムが成立しないなら、人工的なミモロジスムを詩人の技として実現しようと呼びかける。暗いひびきのjourという語を詩句の中で明るく輝かせることがマラルメの考える詩作であり、宇宙を再創造する詩人の使命なのだ。これはまさしく最初にふれた第二次ミモロジスムである。
マラルメの忠実な弟子であるヴァレリーは第二次ミモロジスムを発展させて理知的な詩学を構築したが、もう一人の弟子であるクローデルは外交官として赴任した中国と日本で漢字にふれた影響か、18世紀の文字表記の素朴ミモロジスムに先祖返りしてしまう。eau(水)とhaut(高い)、mon(わたしの)とmont(山)は発音は全く同じだが、綴りを見れば意味がわかるというわけだ。クローデルはランボーの「母音」を手がかりにアルファベットの形状と子音の意味の関係を考察し、vie(生命)について「vは二つの電極の出会いであり、iは散る火花であり、eは存在を自分自身から汲むものである」と、マラルメの『英語の単語』をもしのぐ奔放な夢想を展開し、ミシェル・レリスらシュルレアリストに霊感をあたえる。