『正しいパンツのたたみ方 新しい家庭科勉強法』南野忠晴(岩波ジュニア新書)
妻のパンツを上手くたためない夫・Aさんの話から本書ははじまる。「たてに三つ折り→さらに三つ折り→先を穿き口にはさむ」という妻のたたみ方ができずに悩むAさん。妻からダメだしを食らうことしばしばなので、洗濯物の山をみると気持ちが沈んでしまう。
Aさんについて、せっかくたたんだのに小言をいわれて気の毒、とも、そのくらいのこともできないの?、とも、だったら妻のパンツをたたむのはやめたらいいのに、とも思う。外側からだと、夫のいいぶん、妻のいいぶん、どちらも客観的に眺められるが、我がこととなるとそういかない、というのが世の常というもの。
ひとたび家庭の外にでれば、「できない」ではすまされないこと、「できない」のであれば、それ相応の評価なり待遇なりを受けなくてはならないことばかり。その縛りがもうすこし緩くなれば、こういう家庭内での悩みはむしろ改善されるようになるのでは、と思わなくもないが、ともかくは家庭内での歩み寄りが大切、とするのが大人の対応というものなのだろう。
これは、家庭科の教員が十代の若い人に向けた、「自分の暮らしを自分で整える力」=「生活力」を身につけてもらうための家庭科教本である。
朝食やお弁当から食生活を、そこから発展し、高校生なりの自立とは何かを考える。あるいは、さまざまな家族のありかたから、人間関係についてを考える。そのほか、働くことの意味、お金の使い方、DVについて等、いずれ社会の一員として、他者と共に生きてゆくために必要な基本的な知識が説かれる。
著者は、はじめは高校で英語を教えていたが、思うところあって家庭科の教職免許を取り直し、家庭科の教員となった。
家庭科が男女共修となったのは九〇年代に入ってからのことである。それまでながらく、男性には家庭科の授業を受ける機会がなかった。著者は、学生時代のひとり暮らし、あるいは、結婚をして子育てをするなかで、家庭科で教わるような基礎的な知識を身につけていたら、と思うことがしばしばあったという。
著者が、家庭科の教師に、との思いをさらに強くしたのは、学校での生徒たちの様子が気にかかったためだった。朝から居眠りする、いつもだるそう、無気力、不機嫌、保健室通いが常習。そんな生徒たちの生活面に寄り添い、共に考えるには、家庭科という授業を通じて生徒たちに接するのがよいのではないかと。
本書を読んでいて、よく親から、「そんなだらしのないことで、世の中にでてどうする!」と叱られていたのを思い出してしまった。本書が説教臭いといっているのではない。著者は学校の先生であるから、親の説教のようなそんな言い方は決してせず、生徒たちが自ら考えることができるよう、授業のしかたも工夫する。
もうひとつ思い出したのは、高校生の頃の家庭科の授業である。そこでは、調理や裁縫の実習と、学期末のテストのための知識を教わるだけで、結局は、できる人とできない人の序列をあきらかにしていくばかりだったような気がする。こんにちの自分の家事労働に役に立っているようなことを教わったおぼえもない。
自分の家事能力が何によって培われたかといえば、それは、自分以外の人間を思う気持ちにほかならない。自らを律するのが苦手で、ひとりでいれば果てしなくだらしなくなれるという私のような人間はことにそうだ。もっといえば、家事は、自分のため、誰かのためというより、自分と誰かのあいだにあるもののためにある。関係や時間や空間といった、放っておいたらどうにでもなってしまい、それでいて私たちの生活を大きく左右するものに、自分なりに秩序を与える作業である。
という、日常はつい忘れてしまいがちなことが、本書にあたって思い出されたので、冒頭のAさんのエピソードのような、人ごとではすまされぬ家事の問題もつつがなく乗り越え、忙しさにかまけてたるみがちだった生活力も取り戻せそうな気がしている。
ところで先ほど、本書には説教臭いところがない、と書いたが、それがむしろ、この本の対象読者である高校生の親世代に対する無言の説教になっているような気がしないでもない。