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『つぶれた帽子―佐藤忠良自伝』佐藤忠良(中公文庫)

つぶれた帽子―佐藤忠良自伝

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 北海道での幼年期、画学生時代、新制作協会の設立、シベリアでの抑留生活、戦後の再出発。粘土と静かに格闘し、理屈でなく体で表現し続けた彫刻家の自伝の文庫化である。一九一二年(明治四五)の生まれ、今年の春、九十八歳で亡くなった。


 西洋の影響を受けた日本の近代彫刻が、どうしても西洋風に整った姿を写しがちであったところに、扁平で無骨なありのままの日本人のかたちをとらえた彼の彫刻は、「佐藤のきたな作り好み」などと言われたのだったが、それをことさら狙いましたという風な作為が彼の彫刻にはない。文章もそうで、抽象的なところがなく、感傷にも陥らず、淡々として平明、しかも人柄がにじみ出ている。

 この本のなかで私が何度でも読みかえしたくなるのが、中学生時代の岩瀬さんという人との共同生活の話だ。佐藤忠良宮城県に生まれたが、はやくに父を亡くし、その後母の郷里である北海道夕張町に移る。そこで小学校を卒業し、中学校進学のため、一人札幌へでて下宿生活をはじめる。

 札幌へ出て間もなく、植物園に遊びに行っていたとき、偶然に群馬の農家出の岩瀬久雄さんという二十三歳の人と出会った。岩瀬さんは北大の畜産科に勤務しており、話をしているうちに、どうだ、下宿をやめて一緒にやってみないかということになり、夕張の母に手紙を書いてくれた。まもなく母が札幌へ出てきて岩瀬さんにお願いし、岩瀬さんと私は、市内に家を一軒借りて自炊生活を始めたのである。いま考えてみても、一人の青年が十三歳の少年を相手に、どうしてそういう気になれたのか、私には不思議な気さえする。クリスチャンだったせいかもしれないが、それにしても大変な勇気だったはずである。

 巻末にある年譜でたしかめると、それは大正末から昭和のはじめにかけてのことである。

 二人住まいには広すぎる一軒家で、掃除・洗濯・炊事は完全分担制、少年にとってはすべてが初めてのことで、失敗もしたが、毎日のことで次第に慣れた。岩瀬さんは引っ越し好きで、一緒に暮らす間に何度も住処を移った。夕食のときは賛美歌とお祈りがあった。アヒルやウサギを飼ったり、パンを作ったり、冬山にスキーへ行ったりもした。岩瀬さんの出張のときは少年もたびたび同行、行き先はたいてい田舎の農場だったので、二十キロも歩くことがあったが、そういうとき、岩瀬さんは出張費の半分を少年にくれたのだそうだ。夜はテントをはってふたりで野宿をした。

 岩瀬さんが結婚をしても、共同生活はしばらく続いた。岩瀬さんの妻を少年は「姉さん」と呼び、赤ちゃんが生まれると、銭湯へ連れてゆくのは少年の役目になった。岩瀬さんも一緒だが、彼は恥ずかしがっているのか、赤ちゃんを抱かないので、番台のおばさんから、少年が赤ん坊の父親と思われた。

 忠良少年は岩瀬家の書生ではない。この十三歳と二十三歳の立場は対等なものだ。今なら、十三歳の息子が縁もゆかりもない他人と一緒に住むことを許す母親はいないだろう。個人と個人の出会いからはじまった共同生活。

 ……それが私の人生にどのような重みを持つものであったのか、その頃の私にはまだ解っていなかったはずである。


 昭和二十七年に制作した「群馬の人」という小さな頭像は、直接のモデルは別の人だが、岩瀬さんとの生活の中で培われたものをはっきりと形にした、私の心の記念塔である。

 この「群馬の人」をはじめとする、日本人の顔を題材とした彫刻こそ、「きたな作り好み」と批評をされた最初の作品だった。

 地位や肩書きが削ぎ落とされ、「シベリアという大地に投げ出された一人の人間」である男たちと共に生きた三年間の抑留生活が、こうした作品づくりのきっかけだったという。「群馬の人」のモデルは『歴程』の詩人で、群馬出身の岡本喬、彼は岩瀬さんと感じがよく似ていた。また、軍隊にも群馬の人が多くいた。

 群馬とは何となく縁があり、私の中でずーっとこだわりになっていたのである。作家が長い間、題材をあたためていたというが、私の場合はあたたまっていたと言う方が実感に近い。

 シベリアでの生活は彼の作品づくりに大きな影響を与えたが、岩瀬さんとの共同生活は、彼が彫刻家になったとことそのものにかかわる経験だったかもしれない。「家事仕事とスポーツばかりしていたことだけが妙に印象に残っている」という中学時代、失敗を繰り返して料理をおぼえたり、スキーを背負って雪山をのぼったり、赤ん坊を風呂へ入れたりと、彼の生活は手とからだを使う具体的なことで占められていた。最初は画家を目指していた彼が彫刻をはじめたのは、「絵から逃げた」からだと書いているが、少年時代の暮らしによって培われたものが、キャンバスという平面の上でなく、立体という三次元でのものづくりに彼を向かわせたのではないかと思う。

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