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『〈女中〉イメージの家庭文化史』清水美知子(世界思想社)

〈女中〉イメージの家庭文化史

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 よく、戦前の新婚の家庭に、「夫婦+お手伝いさん一人」が住むという描写を本で読んだり、大正から昭和はじめ頃の住宅関係の本などで、夫婦と子供二人が住む程度の小さな家の間取りにも三畳ほどの女中部屋があるのを見て、不思議な気がしたものだ。


 掃除、洗濯、御飯炊き……あらゆる家事を電気の力を借りずにこなさなくてはならかった時代は、たとえ核家族でも一日の家事は重労働だったから、中流以上の家庭なら、女中を置くのはごく普通のことだった。住み込みの女中が減るのは、戦後、家電製品の普及によって家事に必要な労力が減ったことによる。

 かつて中流家庭の主婦は、家計の予算を立て管理し、女中の仕事ぶりを指揮・監督し家内を取り仕切るホームメーカー(家庭管理者)としてなくてはならない存在であった。それが、住み込み女中がいなくなったことで主婦は、「女あるじ」の座を手放し、無給のハウスキーパー(家事労働者)と位置づけられていく。

 「下婢」「下女」から「女中」、そして「お手伝いさん」へ。その呼び名は、使う側と使われる側――主婦と女中の関係の変化と連動している。それとともに〈女中〉のイメージもまた変化してゆく。その変遷をたどることによって、日本の近現代の家庭生活・家庭文化のありよう、ことに、女中というものを通じた主婦の意識と暮らしの変化が浮き彫りにされる。

 女中奉公は、明治の中頃までは口減らしのためだけのものではなかった。江戸時代の娘たちはそれぞれの身分に応じ、上の階層の家に奉公に上がったが、武家や、裕福な商家・農家では、娘を女中奉公にだすのは花嫁修業の一環だった。娘たちは幼いころから手習いにはげんで各種技能を身につける。格式の高い家に奉公に上がれば、それだけ良縁に恵まれるからだ。

 近代以降しばらくは、女中になるのは経済的な理由よりは修養のためであるという意識が、女中になる側にも、雇い主のほうにも残っていた。それが次第に薄れてゆくのは、中間層が拡大し、女中の雇用が拡大するにつれてのことである。

 雇われる側の意識も変化する。もちろん、家族を助けるために女中として働かなくてはならない者も多かったが、地方の農村の娘が、都会の家へ女中に上がりたいというとき、娘たちは働いて賃金を得るだけでなく、行儀見習い、家事仕事だけでなく、裁縫など何らかの技術を身につけることをのぞむようになってゆく。昼は働き、夜は学校へ通うという「学婢」志願者も増加した。女中は、農村の娘が都会へでて、何らかの技能を身につけながら安全に働くことのできる仕事だった。

 雇用者の側はといえば、女中にそれなりの教育を施し、嫁入りの面倒まで見る者もいれば、単なる家事使用人としてだけこれを扱いつつも、前近代的な主従関係によって女中に対するという意識だけは抜けず、昼夜、時間の際限なく仕事を言いつけたり、充分な休みを取らせない者もいた。そのために女中は過酷な労働を強いられることになる。

 雇用者と被雇用者の条件はしだい食い違い、また、労働時間に際限のない女中よりは、産業化が進むにつれ雇用の増えた女工になることを選ぶ者も増える。こうして明治末ころから女中難が社会問題化する。女中を家へ入れるのには、郷里の縁故を頼って呼び寄せることが多かったが、メディアや紹介所を介することも増えてくる。

 女中をどう教育すべきか、よい女中に長く居てもらうためにはどうしたらよいかは、中流以上の家庭の主婦にとっては大きな悩みの種となる。この時代の婦人雑誌には女中関連の記事は欠かせず、「女中とのつきあい方」「女中の使い方」を指南する本も出版された。一方で、雇われる側にも、奉公人から職業人としての意識が芽生えてゆく。

 家庭を職場とする女中という仕事は制度化されにくく、その拠り所となるものはそれぞれの家の家政のありかたに左右される。家政を取りしきり、家庭生活を運営してゆくことが、かつての主婦のつとめだった。

 かつて中流以上の家庭には、家政のポリシーと呼べるようなものがあった。少なくとも、少なくとも、ポリシーは持たねばならぬという雰囲気は見られた。わが家の家事はこう片づけるべきだというポリシーを女中に伝えていくことは、教師たる主婦の務めであり、だからこそ主婦は女中を厳しくしつけた、それが、家事が手段化するにともない、「家庭文化を伝える労働」という側面は失われていく。


 家事は特別な意味のないルーティーンワーク。家庭にはもはや生徒たる〈女中〉がいないのだから、教育的な配慮は必要ないし、そこには誰かに教えるべき家政もない。家事をどの程度やるかは、「気が済むか済まないか」レベルの問題となり、家事はできる範囲ですればよい、余った時間で自分のしたい家事をおこなえばよいという「家事の趣味化」が進行する。かつて、あらゆる事態に対処できる家事のプロフェッショナルであった主婦は、女中が消えて、ひと通りの家事なら一応はこなせるアマチュアとなった。

 家庭から女中が消えたことによって、主婦の地位だけでなく家族関係も変化する。日本の近代文学にあらわれる女中、「ねえや」や「ばあや」と呼ばれる女性たちと文学者との関係を綴った『ねえやが消えて 演劇的家庭論』で、「ねえや」の消えた家庭は「観客」のいない劇場のようなものだと奥野健男が嘆いてみせたように、「他者」の目のない家庭はどこまでも気兼ねのない、そのためけじめのないものになってしまう。

 「他人の目」のない核家族のなかでは、あらゆる規範は個人の自覚に求められる。その行き詰まりがさまざまな家庭の問題を生み出す。そこから抜け出すために、主婦たちは拠り所とする家庭生活のイメージをさまざまなメディアに追い求めているのだろう。

 個人レベルでは、家事仕事は無給の労働か、さもなくば、それぞれが持つ家庭生活への幻想を補強する手段でしかありえなくなってしまった。この先、家庭生活や家族関係に、「他人の目」にかわるものを介入させることは可能だろうか。

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