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『表参道のヤッコさん』高橋靖子(河出文庫)

表参道のヤッコさん

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 著者は日本におけるスタイリストの草分け的存在。6、70年代、カメラマンや編集者など、多くのクリエイターたちが事務所をかまえていた伝説的アパート、原宿セントラルアパートにあった広告代理店から彼女のキャリアはスタートした。


 ある日アートディレクターから、10本入りのピース(タバコ)の箱の裏側にちょこっと描いたスケッチを渡された。


「こういう撮影をするから、よろしくね」


 私はその5×10センチほどの切れっ端に描かれたラフスケッチを見ながら、衣装と小道具をそろえた。当時の肩書きはまだコピーライターだったけれど、こうした雑務は私の仕事だったし、いつの間にかそれが得意分野になっていた。

 スタイリストというと、洋服や小道具をお店から借りてきて、それをコーディネイトしてモデルさんに着せる人、というのが今日での一般的な認識だと思う。けれど、彼女が仕事をはじめた当初は、業界のなかにおいてでさえ、スタイリストがいかなる仕事をするのかは明確でなかった。彼女はだから、まさに〝草分け〟、「スタイリスト」という職業に就いたのではなく、「スタイリスト」という仕事を作り出した人といえる。

 たとえばこれは、60年代のなかば、彼女がフリーランスになってはじめてのロケ現場でのエピソード。

 冬木立の井の頭公園は寒くて、私は近所の家に頼んで、アルミのやかんで牛乳を温めさせてもらった。スタッフにホットミルクを配っていたら、沢渡さん(註・カメラマンの沢渡朔)が「それにしても、こんなに食い物がいっぱいの撮影ははじめてだよ」と言った。


 私はフランスパンのサンドイッチ、おにぎり、果物と山ほど食べ物を用意していた。その頃はまだロケーション・コーディネーターもいなかったから、全部手づくりだった。こんなときでも私は、よく言えば限りなく気がきき、悪く言えばトゥー・マッチだった。その後の人生がそうであるように。

 また、71年、ロンドン初の山本寛斎のショーでは、単身ロンドンへ渡ってモデル選びや会場の手配をし、ショーに使われる音楽テープの編集までこなした。

 あるいは、銀座のみゆき通りでひらかれるお祭りプロデュースをたのまれたときには、ロックバンド・フローラルを乗せたトラックのあとから、ミニスカートのスクールメイツが風船をつけた自転車に乗ってつづくというパレードを企画。

 当日の早朝、私は人気のないみゆき通りをストップウォッチ片手に何度も往復した。


 どのくらいの速度でパレードは続くのか、どのくらいの人たちがそれを見物してくれるのか、パレード自体どんなものになるのか、見当もつかない。すべてぶっつけ本番だった。


 ……


 翌日、ほとんどの新聞がこのパレードを報じ、老舗の街をロックの演奏が彩ったことを伝えた。


 たしか次の年から大銀座祭が行われるようになったと思う。これはその前哨ともいうべき出来事だった。

 その発想や気配りの細やかさが発揮されるのは、仕事上だけではない。セントラルアパート時代、毎週末に開かれるパーティーを仕切ることになった彼女。いつしか、そこに集まる客たちから「表参道のヤッコさん」と呼ばれるようになったという。

 パーティー客が200人を突破した頃には、私の知らない人たちがお客の半分を超えた。200人のお客さんたちは満足しているだろうか。料理と飲み物、音楽、そしてお客同士の会話。それらが一体となって、時間の帯があるとき盛り上がってキラキラと輝く。次第に、その熱は沸騰点からふわっと暖かいものに変わる。そのあたりでパーティは幕を閉じるのだ。


 私はいつの間にかプロの興行師のようにパーティの成り行きを見守るようになっていた。あちこちで挨拶し、沈みかけている席ではおしゃべりをして盛り上げた。みんなが帰ったあとは、ウエーターたちにチップを渡し、一緒にあと片づけをした。


 土曜の夜の喧噪やきらめきは過去のものになり、すっかり夜が明けた日曜日の原宿をとぼとぼ歩いて家に戻った。

 現在ではさまざまに細分化され専門化した仕事、それを、ひとつのプロジェクトを形にしていく中で、一手に引き受けこなしてゆく。ファッションや広告の世界が飛躍的に発展してゆく時代、とびきりのエネルギーと好奇心とをもって、自分にできることは何かを模索し動き回る。その繰り返しのなかで、彼女は「スタイリスト」になっていったのだ。

 この仕事は、センスやアイデアが求められるのはもちろん、あらゆるところに神経を張りめぐらし、臨機応変に動かなくてはとてもつとまらないものだ。彼女が持つスタイリストとしてのそれらの素養は、この本から発揮されるムードにもあらわれていると思う。

 6、70年代のセントラルアパート周辺、スタイリスト修業のために訪れた60年代のニューヨーク、70年代のロンドン――さまざさまなエピソードや交友録はどれも、それが四十年以上も前の出来事とは思えぬほどのフレッシュな筆致で思いつくままに繰り出され、それらはどれも、「ヤッコさん」ならではの細やかな目配りと柔軟性にみちているのだ。

 当時のカルチャーに興味のある人にとってこの上なく楽しい本であるのはもちろん、仕事とは何か(ことに、女性にとっての)についても深く考えさせられる一冊。


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