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『上海、かたつむりの家』六六 青樹明子・訳(プレジデント社)

上海、かたつむりの家

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 中国では知らない人はいないというほどの大ベストセラー小説らしい。テレビドラマにもなり、こちらもたいへんなな人気を博したという話題作である。


 原作は2007年刊、ドラマ化は2009年だが、一部の局では内容が過激すぎるとの理由で放映を打ち切られ、そのことでさらに話題を呼んだそうだ。

 都市部の住宅難、貧富の差、拝金主義といった現代中国の現実が描かれているうえ、官僚の汚職や不倫、夫婦関係の難しさ、といったドラマにはうってつけの要素が満載である。訳者まえがきによれば、中国人にとって「身につまされるけど、目が離せない」というリアルすぎる内容。ドラマではそれが、原作以上に過激に表現されていたのかもしれない。

 タイトルの「かたつむりの家」は原題で「蝸居」。日本でいうところの「ウサギ小屋」のことで、その蝸居に暮らす夫婦が家を買おうとすることから物語ははじまる。

 値下がりをはじめているという中国の不動産だが、本書の書かれたときはバブルのただなかである。一人息子を地方の両親の元に預け、夫婦ふたりで働きづめでも、「貯金の増える速度は物価上昇の速度に、永遠に追いつかない」。しかし、息子とともに暮らすため、妻は是か非でも自分の家が欲しい。

 不動産購入に突き進もうとする蝸居妻。彼女のためなら命もいとわぬという妹(一人っ子政策のさなか、姉の一言で両親が自分を生むことを決めたため、というのがその理由)は、開発業者に勤めている。その妹と、開発業者と密につながる役人との不倫の恋。金勘定に明け暮れるなかでしだいに軋んでゆく蝸夫婦の仲。ありえない速度で高騰していく不動産価格の裏ですすむ開発業者の策略と役人の汚職。それらが絡まり合い、物語はすすむ。

 夫婦が住む「蝸居」、台所とトイレは共同、広さ10平米ほどの部屋の家賃は月650元(約8450円)。ともに大卒の夫婦の年収は9000元(約11万7000円)、とある。

 妻が買おうと決めた家は、上海市のとなりの江蘇省の開発地区にあり、まわりは畑ばかり、スーパーマーケットもないようなところだが、不動産会社側によれば、これだけマンションがたくさん建つのだから、いずれは発展するとのこと。価格は93万元(約1209万円)。日本で、年収500万の人間が5億の家を買おうとはふつう思わないだろうが、中国ではちがうらしい。

 上海を旅行したとき、なにより印象深かったのは、庶民価格と金持ち価格の差の激しさである。外国を旅してふつうに感じる、物価が高い/安いというのとは事情がちがい、ただ元を円に換算するだけは、ものの価値ははかれないことに戸惑い、お財布からお金をだすたびに奇妙なめまいにおそわれた。

 たとえば朝、ホテルのカフェで飲んでいたコーヒーは日本円にして500円ほど。チェーン系のコーヒー店にくらべればちょっと高いな、という程度のこの金額は、中国の価値観にあてはめると、たかがコーヒー一杯に何千円もの金を支払っている、ということになる。

 物語のなかでも、蝸居夫婦の妻の妹が、恋人とハーゲンダッツのアイスクリームを食べるシーンがあるが、ひとつ25元(約325円)のそれは、彼等にしてみれば「一週間のランチ代に匹敵する」、たいへんな贅沢品である。

 ということは、93万元という家の値段は、単純に年収の100倍、というだけでは足りぬ、とほうもない額ではないのか。日本人の私からすると、無謀としか思えないこの買い物は、しかし、中国の都市部の人にとってはありえる話なのだ。結果、「房奴」=住宅ローンの返済に追われる人々の増加が社会問題になる。この物語が中国の人にとって「身につまされる」という所以である。

 そんな、庶民にとっては高すぎる家の値段はともかく、物語に登場する、これなら私にも買える、というものの値段のほうが、日本人としては身につまされる思いである。

 ひとつは、妹の不倫相手が衝動買いする奈良美智の人形で、それは、いくらとは書かれていないが、かなり裕福な男がそのときもっていた財布の中身では足りない額である。男はその人形を、愛人にプレゼントする。

 もうひとつは、愛人である妹が男から与えられた金で買う下着、トリンプのブラジャー500元。ふだん50元のブラジャーをつけている彼女は、試着室でその品質のちがいにうっとりとする。日本円にして6500円というその値段の価値はこれまた、私たちの感じる6500円よりは、はるかに大きいだろう。

 妹だけでなく、蝸居夫婦までもが(そうとはしらずに)、男からさまざまな援助をうけ、待望の家を手に入れることになるのだが、その男の富も権力も、不動産バブルのただなかにふってわいたまぼろしのようなもの。上海の今がわかる、という触れ込みのこの物語から私が受け取ったものといえば、奈良美智の人形とブラジャーの存在感なのであった。

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