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『石井好子のヨーロッパ家庭料理』石井好子(河出書房新社)

石井好子のヨーロッパ家庭料理

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 四十年ちかい歳月を経て復刊した本書のオリジナルは昭和五十一年、文化出版局刊。


 石井好子の代表作『巴里の空の下 オムレツのにおいは流れる』といえば、パリ暮らしのなか、フランス人のくいしん坊ぶりに触れ、食べることの楽しみに開眼させられた著者が、かの地で出会った料理と味を、さまざまな人との出会いやエピソードをまじえて綴った食エッセイの傑作。異国の空の下、歌手として生きることで精一杯だった石井にとって、食への好奇心と楽しみは、実際に料理を口にする以上の命の糧であったろう。料理のあるところには、人と人との結びつきがあり、そうしてはじめて、そのひと皿は忘れがたい味となる。至極あたりまえだが、忘れてはならないこの食への構えと、ヨーロッパの食べもののあれこれを、石井は、さらりとした上質な筆にのせて、日本の読者に届けてくれた。

 本書は雑誌『ミセス』の連載をまとめたもの。石井がヨーロッパ各地の友人知人宅の台所を取材し、家族とともにテーブルを囲み、その味と料理法をリポートする。料理だけでなく、それを供してくれる主人とその家族の人となりや、家の様子といった暮らしぶり全体が紹介されるのは石井ならではのことだ。フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、ウィーン、北欧にイギリス。ヨーロッパのほぼ全域にわたって取材の足をのばし、人との出会いを楽しみ、各国の料理を、作り方ともども体験する。

 日本の都会では、世界各国の料理を、それもかなり本格的でおいしいものを食べることができるし、その情報も簡単に手に入れることができる。けれどもこの、ヨーロッパ家庭料理探訪が連載されていたのは昭和四十七年から四十九年のこと。もちろん、すでに欧米の食文化は日本に根付いていただろうし、各国の料理を食べさせるレストランだってあったにちがいないが、それでもまだ、ヨーロッパの人たちが日々家庭で食べている料理がどんなものかは、あまり知られることがなかっただろう。ムール貝ホースラディッシュ、アーティーチョーク、トリュフ、オリーブオイル、クルジェット(ズッキーニ)、チコリ、アンディーヴ、さまざまな種類のチーズやハーブ……その食材も、今でこそ、品揃えの豊富なスーパーでなら簡単に手に入れることができるが、当時の日本人にはまだ、なじみがなかっであろうものがかなりある。本格的なオーブンや煮込み用の鍋といった調理道具にしても、一般の家庭でそろえることは難しかったかもしれない。『ミセス』が、富裕層の奥様向けの雑誌だったとしても、よほどの料理好きでないかぎり、誌面を彩る料理の数々を、実際に作ってみようという人がどれだけいたことか。おおかたの読者はただ、ヨーロッパへの憧れをもって、この誌面を眺めていたのではないか。

 読み物としての性格が強いとはいえ、本書はまごうかたなき料理書。すぐれた料理書を多く送り出している文化出版局の出版物のなかでも、名作のひとつといえる。料理のなりたちを、レシピだけでなく、それを作り食する人たちの暮らしもろとも描きだしたところにそのすばらしさがある。もちろんそれは、知識だけでなく、ヨーロッパでの暮らしの実際を身をもって知っている石井好子という書き手があってこそ。 

 各国の料理も、食材も、簡単に手に入れることのできるようになった今日、この本が復刊されたのは、単なる情報にとどまらぬ物語性と、昭和四、五十年代が夢みたような「ヨーロッパ」への憧れが、いま再び顧みられているということか。なにより、なんでも見よう、聞こう、知ろう、食べよう、という彼女のバイタリティと好奇心の旺盛さは、バターや洋酒のふんだんに使われたヨーロッパの料理に負けぬくらいの熱量となって、読者の食と暮らしに対するモチベーションを上げてくれそうではないか。

 復刊にさいしては、堀井和子のオマージュと、平松洋子の解説があらたに収録されている。


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