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『水の旅 日本再発見』富山和子(中公文庫)

水の旅  日本再発見

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先人の暮らしと水とのかかわり合いの跡を各地に訪ねたルポルタージュ。皇居のお堀の水はどこからやってくるのか。伊勢神宮式年遷宮森林伐採の関係、ことに興味深いのは、日本列島の山々を覆う森林が、祖先たちによっていかに築きあげられたものであるかを伝えるエピソードである。

たとえば「阿蘇の水を作る話」。江戸時代、阿蘇の外輪山吉無田官山から有明海へ注ぐ緑川の支流御船川流域では、水の乏しい土地に入植するさい、半世紀にわたって水源の山に木を植えつづけ、川の水量を増やし、水路を引いた。

私たちは自然というものは、人間が手を触れぬものほどよい、と考えがちである。だが日本列島の自然は山も川も、先祖たちが手をかけて、後世に送ったものである。土のかけらや水の一滴に至るまで、人間の労働の産物である。


「手つかずの自然」という言葉を耳にすることがある。人の手のおよんでいない、ありのままの自然を尊ぶ感性も、ひろくいき渡っている。たとえば、森林伐採が河川の氾濫を呼ぶ、とはおなじみの言説だが、そうというだけでは、森林ははじめからそこにあったもの、人知を介さない天賦のものであるが如くとらえられてしまうこともあるだろう。しかし、著者によれば、日本の山々にはもれなく人の手が入っているという。日本に文化は「水の文化」、さらにいえば「木を植える文化」だった。日本の森林面積は、古代よりも現代のほうが多いのだそうだ。

縄文時代、木の実を食する縄文人たちが、クリやクルミの林を造っていたことが、当時の森林相の調査から知れるというし、大地にまいたヒゲは杉に、胸毛はヒノキになったという素戔嗚尊は植林の神であり、彼が退治した八岐大蛇は斐伊川の洪水をあらわすという。

人々は太古の昔から、「木を植える」ということを知り、またそれをしていた。農耕がはじめられてからはなおのことである。草原だった山に、長い歳月をかけて森をつくり、水を増やし、農地をひろげる。水害を防ぎ、水資源を確保し、農地を守る。そうしたことが、日本列島の各地で行われてきたのだという。

堰を積み、トンネルをうがち橋をかけての大土工事であれば、後世に残り目にも見え、人々もその業績を忘れない。だが大もとの水源となると、山奥へ足を運ぶ機会も少なく、まして森林のばあいには、木を植えても育ってしまうのでわからない。

森となってしまえば、木そのものは自然物であるから、それが人の手によるものだということは見えにくい。ましてや山にも、農業にも関わることのない都会の人間は、山の森ははじめからそこにあったもののようにとらえられてしまう。

ここに、「土の教育運動」で知られる大西伍一による「日本老農伝」を手にした時の著者の感動が記されている。800ページにもおよぶこの大著には、各地で治水や新田開発などに尽力した1000人あまりの農業指導者たちの業績が記録されているという。植林にたずさわった人ももちろんそこにはふくまれる。

それにしてもこのように、何もないところに森林を作り水を作り川を作る。それを行ったのは、農民たちであった。何のためかといえば、水田のため、米のために、である。

私はこれまで一滴の水も人間の労働の産物だと書いてきたが、見かたを変えればそれは米の産物であった。日本の山も川も、米が作ってきたのである。

いま、米を外国から輸入しようという議論が盛んである。けれども日本人にとって、米とは単なるエサではなくて、文化の土台、国土の土台であった。そうした観点からもう一度、「米を作る」ということの意味を、考えてみる必要がないだろうか。

本書のオリジナルが刊行されたのは1987年。四半世紀を経て、TTP問題に直面する今日、本書が文庫化されたのにも頷けるというものである。

先日、住んでいるマンションで、給水システムの不具合から断水となった。ほんの数時間のことだったが、家中のどの蛇口をひねっても水が出てこないという事態に、人はこうも不安な気持ちになるものかと驚く。水なしではほんとうに何もできない、だけど、無洗米とミネラルウォーターがあるから、ご飯だけはとりあえず食べられるな、などとのんきに考えてしまう、そういう生活を、あたりまえに生きて疑わないわが身を省みる。本書を読んでいる最中のことゆえ、なおのこと、この蛇口から出てくる水がどこからきたのか、大地に沁み入り、大気に漂い、たえずめぐっている水を思った。

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