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『今を生きるための現代詩』渡邊十絲子(講談社現代新書)

今を生きるための現代詩

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小遣いをためて買った『谷川俊太郎詩集』、七百ページにもおよぶその本をはじめてひらいたとき、13歳だった著者がもっとも衝撃を受けたのは、そこに収められた詩篇「六十二のソネット」の〝目次〟の部分だった。

25 世界の中で私が身動きする=230

26 ひとが私に向かって歩いてくる=232

27 地球は火の子供で身重だ=234

28 眠ろうとすると=236

29 私は思い出をひき写している=238

この、番号がふられたことばの羅列との出会いによって、少女は現代詩というものを理解する。小学生のときから詩が好きだったというのに、国語の教科書に載っていた、同じく谷川俊太郎の別の詩にまったく心を動かされず、そのために深く混乱していた矢先のことだった。

著者は詩人。はじめて出会う人にそう名乗ると、文芸雑誌編集者からさえ「詩はよくわからない」と言われることがあるのだそうだ。おおくの人びとにとって、現代詩は難解でとっつきにくいものとみなされている。それは、「よいもの」「美しいもの」「読みとくべきもの」として、国語の教科書の中で詩と出会う、その出会いかたがいけないのだと著者はいう。

本書は、現代詩の詩人がその解釈をうながすために書いた手引きではなく、「むしろ、わからなかったこと、読みとれなかったこと、読みまちがえたことを書きおとさないように、自分の人生おりおりに詩とどうかかわってきたか」が書かれたものだ。

そこでもちだされたのが先のエピソード。「たんなるこどもの勘違い」だが、後年「それなりに意味があった」と著者が書くのは、こんにちの、現代詩というものと人びととの隔たりをまえにして、詩の読み方に〝正解〟などないという、その手本を示したいという思いからである。

谷川俊太郎にはじまり、黒田喜夫入沢康夫、安東次男、川田綺音、井坂洋子と、著者にとって忘れられない詩のいくつかがとりあげられる。かつて自分がなぜその詩に動かされたのか、それをことばにできるのは、著者が成長して詩人となった今だからこそできることだが、中学生と詩人のあいだに、詩を読むことにおける優劣はない。

ある詩を何年経っても読みあきないというのは、番地をさがしつづけていることでもあるし、謎をときつづけているということでもある。短絡的に答えが出てしまうのは「謎」ではなく、謎というのは角度や深さをかえながらさまざまなアプローチをつづけていくことによってしか接近できない。この「接近しようとするこころみの途上」にあるとき、人はじつにいろいろなことを知り、感じ、考える。

本の冒頭、13歳で谷川俊太郎を読んでいた著者は、終盤では大学を卒業し、書くことを目指しながら、とりあえずは事務職について働きはじめている。

ここにまた、興味深いエピソードがあった。1964年生まれの著者の「優秀な女ともだち」たちは、機会均等法の風に乗って出世コースへと漕ぎ出していったが、学生のときは活動的で頼もしかった彼女たちは、「けなげで献身的で、男の言うことをけっして否定しない女」という擬態を一様に身につけていったという。そのことを、はじめは苦々しい思いで眺めていた著者だったが、しだいに「一生かけて変転していく彼女らの姿の、ひとつの段階」ととらえるようになった。それは、「ほんとうの自分」や「不変の自分」などというものの価値を疑いはじめたためだが、その著者の変化に寄り添うようにしてあったのが井坂洋子の詩だった。「あのころのわたしたちを包囲していた『不変の自分、揺るぎない自分』というフィクションを、井坂洋子の詩はいつもかるがるとくつがえしていった」。

いま人間にできることは、謙虚になるきっかけとしての詩に接することだ。

理解しようとしてどうしても理解しきれない余白、説明しようとしてどうしても説明しきれない余白の存在を認めること。

そのとき、自分の思いえがく「自分像」は、かぎりなく白紙に近づく。閉ざされていた自分がひらかれる。いまの自分がまだ気づくことのできない美しい法則が、世界のどこかにかくされてあることを意識するようになる。


たしかに、読むべきもの、読まなくてはならないものがいつも目の前に山と積まれている私にとって、そのような経験をもたらしてくれるのは、詩しかないという気がする。著者は「謙虚になるきっかけ」と書いているが、私のばあいは冒険をするきっかけというところか。通り慣れた道とはべつの、思いもよらないところへ自分を放りだしたい、だされたい。そのために詩を欲する。

できたら、もうすこし日常のなかに詩と接するきっかけがあればよいのだが。著者が詩を書きはじめた80年代には、新聞や雑誌、企業の社内報やPR誌が詩を載せることがふつうだったが、いまではそういうことも減ってしまったという。そういえば、文芸誌でなくとも、昔の雑誌にはたいてい詩のページというものがあった。詩集や詩の雑誌はいまももちろんあるし、詩が読みたければそれを手にすればよいのだけれど、さあ、私はこれから詩をよみますよ、という構えではないのに、思いがけず詩に出会ってしまうというシチュエーションを、いつもどこかで期待してしまう私なのである。


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