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『宮澤賢治の聴いたクラシック』萩谷由喜子(小学館)

宮澤賢治の聴いたクラシック

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宮澤賢治クラシック音楽との接点」

 宮澤賢治(1896-1933)について書かれた本は多いが、賢治の生涯や作品とクラシック音楽との接点に的を絞った本を初めて読んだ(萩谷由喜子宮澤賢治の聴いたクラシック』小学館、2013年)。宮澤家には、明治40年(1907年)頃にはすでに蓄音器があり、家族で愛聴していたとは驚きである。賢治の実家は、よく知られているように、大都会ではなく岩手県の花巻だから、「質・古物商として成功した宮澤家の文化水準と経済力を映し出している」(同書、5ページ)という著者の指摘は正しいと思う。以下、できる限り賢治とクラシック音楽との関係に焦点を合わせたいので、それ以外のことは付随的に触れるのみにとどめたい。


 花巻市上町には、同市で唯一の洋品専門店(岩田洋物店)があった。この店は洋品雑貨一般からヤマハのハーモニカまで販売していたらしいが、店主(賢治の従兄弟・岩田蔵)が仕入れのために上京したとき、ある化粧品屋から百円のワシ印の蓄音器を譲り受けた。店主はそれを花巻に持ち帰ってレコードをかけていたのだろうが、ある日、賢治と彼の弟(宮澤清六)がそれを聴いて、とくに賢治が「これはいい、これはいい」と感激したという(同書、6-7ページ参照)。レコードといっても、それ以前は浄瑠璃や俗謡などがほとんどだったが、賢治がこの頃(1918年)気に入ったのは、西洋のクラシック音楽である。弟清六の回想(『兄とレコード』)によれば、賢治はチャイコフスキーの第四交響曲のフィナーレを聴いたとき、「此の作曲家は実にあきれたことをやるじゃないか!」と叫んだという(同書、7ページ)。本書の強みは、賢治が実際に聴いたか聴いた蓋然性の高い音源を付録として二枚組のCDにまとめていることである。この演奏は、ムック指揮ボストン・シンフォニー管弦楽団の演奏(1917年録音)だったという。

 この時代のレコードでクラシック音楽を演奏しているのは、私たちがいま思い浮かべるフル・オーケストラというよりも「バンド」と呼べるような小規模な楽団が少なくなかったが、賢治も1910~20年代に活躍したヴェセルラ指揮のイタリアン・バンドの演奏をよく聴いていた。ベートーヴェンの有名なピアノ・ソナタ第14番「月光」やピアノ・ソナタ第12番「葬送」第3楽章のバンド版も、イタリアン・バンドの演奏で愛聴した。

 当時レコードは高価だったが、賢治は大正10年(1921年)12月から大正15年3月まで花巻農学校の教師として毎月90円の俸給をもらっていたので、レコードの数も少しずつ増えていったのだろう。著者はこんなことを書いている。

「この頃、地方の小さな町花巻の楽器店でなぜかよくレコードが売れるので、ポリドール社ではその店に感謝状を贈り、詳しい事情を聞いてみたところ、それは、ひとりの風変わりな農学校教師がせっせと買っていくからだとわかり唖然としたという珍事があった。その農学校教師が賢治であったことは言うまでもない。」(同書、15ページ)

 賢治はベートーヴェンを敬愛していた。花巻農学校でベートーヴェン百年祭レコードコンサートを企画したのも賢治だった。そればかりか、同時期に農学校付近の野良で、つばのある帽子に厚手のコート姿で後ろ手に組んでうつむきがちに歩く自分の写真を撮らせているが、これはなんとベートーヴェンがウィーン郊外のハイリゲンシュタットを散策するのを「模倣」して撮らせたものだという(同書、18ページ)。

 ベートーヴェンの有名な「運命」交響曲も大好きだった。賢治の感想「繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現の素晴らしさ」も興味深いが、「おれも是非ともこういうものを書かねばならない」と奮起して書き始めたのが『春と修羅』と題する心象スケッチだったという弟清六の回想がさらに印象深い(同書、20ページ参照)。賢治は運命交響曲のレコードを三種類もっていたが、そのうちの一つは日本でも人気の高いフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの演奏(1926年録音)である。

 もう一つ有名なベートーヴェンの田園交響曲も賢治の作品と無縁ではない。賢治は、大正11年(1922年)5月21日、岩手山の南東山麓に広がる小岩井農場を一日がかりで歩き、その折々の実景と心象風景を画家がスケッチするのと同じように言葉で紡いでスケッチしたが、この長編口語詩『小岩井農場』は、ベートーヴェンの田園交響曲の手法を踏襲したものだった。著者は、「ベートーヴェンの書き留めたのが五線上の音符で、賢治のそれが彼独自の言葉の音符だったに過ぎない」という(同書、27ページ)。賢治が所蔵していたレコードの中ではベートーヴェンが一番多かったというくらい、この楽聖への思い入れは強かったようだ。

 ところで、賢治といえば童話『セロ弾きのゴーシュ』を思い出すひとも多いだろうが、彼は実際に「新交響楽協会」(設立まもない日本初の常設プロ・オーケストラ)のチェロ奏者(大津三郎)から三日間の特訓を受けている。無謀なことだ。大津のペンネームでの回想記(『音楽の友』1952年1月号)によれば、「エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりもセロのほうがよいように思いますので」と答えたらしい(同書、39ページ参照)。

 また、童話『銀河鉄道の夜』の後半には『新世界交響楽』が登場するが、これはもちろんドヴォルザークの新世界交響曲のことである。賢治はこの曲の第二楽章のラルゴが大好きで、折に触れては口ずさんでいたという。半端ではないクラシック音楽への傾注ぶりである。

 今日、私たちは賢治が長生きできなかったことを知っているが、晩年リヒャルト・シュトラウス交響詩『死と浄化』の世界に共感し、そのレコードを病を押して吉祥寺の菊池武雄に託したという。賢治は法華経の信者でもあったが、著者は、「東洋的な宗教観に基づく解脱の境地」と、『死と浄化』のテーマ(死が生の終焉ではなく天界への浄化であること)が重なり合ったのではないかと推察している(同書、58ページ参照)。

 病が重くなったとき、音量の大きな音楽を聴くのは身体にこたえるようになったが、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』をごく小さな音量でも聴きたがったり、ストラヴィンスキーの『火の鳥』までも受け容れるようなモダンな芸術感覚を持っていたりと、興味深い事実の紹介がたくさん登場する。賢治のファンでなくとも、あるいはクラシック音楽のファンでなくとも十分に楽しめるし、また教えられることの多い好著である。

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