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『ふだん着のデザイナー』桑沢洋子(桑沢学園)

ふだん着のデザイナー

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デザイナーであり、桑沢デザイン研究所東京造形大学を有する桑沢学園を設立した教育者である桑沢洋子。戦前から『婦人画報』の編集者として服飾の仕事に関わり、戦後大きく様変わりした日本人女性の暮らしを衣の側面から見据え、教育機関を立ち上げるにいたる道すじは、女性の生活と仕事にたいする彼女のひたむきな思いに貫かれている。

お裁縫から女性を解放することが大切だ。それには、女性自身の中から、デザイナーや技術家が、続々と出て、立派に職能人として通るようになり、このひとたちの手で、より合理的な、しかも安価な既製品を大量にうみだすことである。消費者としての女性は、いわゆる「お裁縫」などで、一日の貴重な、しかも長い時間を浪費する必要はない。

本書が書かれた当時はまだ、着るものは自分で縫うのが一般的だった。かねてから、お裁縫ができることは女性の必須条件であり、着物が洋服となってもそれは変わることはなかった。ここで言う洋服というのは、戦前のいわゆる〝洋装〟のような、富裕層や、都市部で働く女性などが洋装店で誂えるような特別なものではなく、あらゆる女性の日常着としての〝きもの〟。ユニフォームや制服のデザインをよく手がけた桑沢洋子はまた、よそ行きではないふだんのきもの、主婦のための家庭着や、農村の女性のための野良着、勤めにでる女性が快適に働くことのできる機能的な仕事着のデザインの提案をし、さらにそれを既製品として普及させようとした。

しかし、これは、一般の既製服についてもいえることであるが、大きな問題をふくんでいる。それは日本の女性には、自分で縫うという習慣があるため、きものを縫うに要する労力の計算をしないのである。「お針もできない」ということは女の資格がないことのようにいわれてきた。東京の真ん中のしかも進歩的と称する奥さんやオフィス・ガールでさえ同様である。一着の既製服をみても、生地代は、裏代は、という材料費の原価計算をするだけで、仕立代の計算をしようとしない、つまり商品の真価が計算できない状態ではなかろうか。「あら高いわね?」という。それは、生地三ヤールでいくら、という生地代で、作る労力は、自分が縫ったらという基準で計算して、労力のねだんは計算に入れないようである。

晴れ着ではない、日々の生活のなかで身につけるものをお金を出して買うことは、多くの女性にとってはまだあたりまえのことでなかった。それは、彼女たちが勘定に入れない「労力のねだん」--それまでしてきた服を縫うという手間暇にとって変わるものの価値--が何なのか、ということが意識されないことでもあった。

そんななかで桑沢洋子は、戦前の東京で生まれ育ち、万事につけて意識の高い人らしく「生活改善」ということばをしばしば使い、「生活をよりよくする形」の問題として衣服をとらえ、「家事上の問題がよりよくなってゆけば、女性の社会進出の契機となってゆく」と、ふだん着の既製服の大衆化を夢みた。

また、既製服の消費者だけではなく、製作者の側にも問題があった。戦後、雨後のたけのこのごとくあらわれた洋裁学校、そこへこぞってつめかけた女性たちによる洋裁ブームは、職業人の育成にはほど遠いものだった。

なぜ洋裁学校がこんなにまでさわがれてきたかを考えてみると、戦前の女性の職業進出への刺激、それから、戦争中の学生の勤労奉仕、そして、戦時中の学生生活のブランクをとりかえす意味での女性の具体的な行動が、この洋裁学校に集中したのではないかと思う。つまり、「洋裁で独立しよう」「洋裁を職業としたい」という機運が、これらの比較的新しい女性たちの声として盛上がったのだといえないだろうか。


[…]


いずれにしても、自分の服を自分で縫う程度の希望はよいとしても、一年や二年の洋裁学校の修了者が、簡単に職業化できるだろう、……という甘い考え方の女性たちがいだく希望に対して、いつも私は返答に困った。つまり、洋裁学校の教育システムは、けっして職業人のための教育ではなく、いわば、花嫁学校の家庭裁縫の域から一歩も出ていなかったからである。

そんなおり、小さな洋裁学校の教壇に立ったことがきっかけとなり、桑沢洋子は服飾教育にたずさわってゆくことになる。独自の型紙の製図法を編み出してはすぐさまそれを生徒たちに教授し、また卒業して洋裁師となった者たちの相談に乗っては、洋裁で身を立ててゆくことの難しさに悩むのであった。

ところで 桑沢洋子のデザインには、今日の私たちがファッションデザイナーの仕事にみるような〝表現〟はない。女子美の西洋画科に進んだものの、卒業を機に絵画をやめる決意をしたのは、自立できる職業に就きたいという強い思いからだったが、思えば彼女は、自分がなすべき仕事は芸術のための芸術ではないことを予感していたのかもしれない。彼女が女子美生だった昭和初期といえば、新しい芸術思潮が花開き、尖端をゆくクラスメイトは断髪にハイヒールという時代だったが、そんななか、紺の袴姿に、両耳の上に三髷をのせたラジオ巻で通した洋子は、当世風のモダンになびくことはなかった。

女子美卒業後しばらくは、喫茶店と出版社のアルバイトのかけもち、軍隊関係の参考書の編集スタッフと、自分のちからで食べてゆくことただそれだけを思いつめ、がむしゃらに働いた。そんなとき、人のすすめで建築家の川喜田煉三郎が主宰する造形教室に通いはじめ、バウハウスの教育システムにのっとったその授業に目を見張らされる。

それからというものは、私の心の奥底に光をはなち、いつかはその光をだんだんと輝かして、 本当の自分の仕事に到達しなければならない、と考えるようになった。その当時、それはいったいなんだ、と問われても、抽象的で到底言葉ではいい表わせなかったにちがいない希望の光だった。


私は、今まであまりに具体的に、現実的に、物事を処理しようとしてはいなかったか。生活をしてゆくことの現実のみに、きゅうきゅうとしすぎてはいなかったか……、私にとって反省の日々がつづいた。


新しい生活様式、抽象的すぎる芸術とはちがった生活のための造形、人間をより高度に合理的に生かしてゆく生活様式、その中の一端の仕事でよいから私のできる仕事はないだろうか。私の希望はふくれていった。

その後、本格的に編集者としての仕事をはじめ、『婦人画報』に入ってからは自らデザインの提案をするページをつくり、誌上での生地やイージーオーダー販売を企画し、戦後は編集部に設けられた読者サービスのための衣料相談室で、デザインや技術的なことから、被服専門学生の論文指導や就職のあっせん、さらには身の上相談まで、様々な女性たちの相談に熱心に応じた。

絵画を捨て去ったあと、川喜田煉三郎によるモダニズムの洗礼が桑沢洋子の仕事を大きく決定づけたにはちがいないが、地に足のついた彼女の行き方には、女ばかりの家族のなかで培われた生活者としての感覚がおおいに息づいている。

桑沢洋子は六姉妹の五女として育った。生まれは明治43年、両親は、いまも繊維問屋のならぶ東京神田岩本町で洋服問屋を営んでいた。働き者の母親は、当時の女性としてはめずらしく、世間的な風潮や常識に流されない自らの考えをはっきりともち、それに従って一家の暮らしを運営してゆく強さと、家族と従業員を隔てなく思いやる公平さをもっていた。また、娘たちに着せる着物はどれも、「庶民的なしかも、気品のある、合理的な」もので、これはそのまま、桑沢洋子のデザインにもあてはまる。

堅実かつのびやかな家風。これからは女も強くならねばという母の教育。そして、四人の姉たちをみて過ごしたことは、女性としてどう生きていくべきかを彼女に深く考えさせることになった。お見合いをして家庭夫人となった長女を別とすると、会社員、三味線の師匠、ヴァイオリニストと、姉妹はそれぞれに自らの仕事を持った。ことに、長女が嫁ぎ、父が病に倒れてあと、一家を支えるために猛然と働いた次女の影響は大きい。

もともと器用でセンスのよいこの姉は、自らのデザインをデパートに売り込み注文を取り付け、三女と母、また近所のおかみさん連中や浅草橋の芸者衆までまきこんでの手編み服卸問屋を立ち上げてしまう才覚を持っていた。震災後は神田から大塚の電車通りに移って子供服の洋裁店(当時、大人の洋装はまれだったが、山の手では子供には洋服を着せることが多かった)を開業する。姉は誰に習うでもなく、外国のスタイルブックなどを参考に、自分でデザインを考え、フランス刺繍をほどこしたビロードの子供服を作りだしてしまうのだった。そんな姉の働きから、洋子は学校へ通わせてもらっていた。自由で独立心旺盛、またたいへんに実際的で、浮ついたところのない姉妹に囲まれていた彼女は、流行にうつつを抜かしているどころではなかったし、女が〝芸術〟で食べていくなど、到底かなわぬことと見きわめていた。

こうした、女たちそれぞれの働きによる家族の暮らしを生きてきた桑沢洋子だからこその、女性の働きと暮らしに即した機能的なふだん着のデザインであり、自立を促す職能教育であり、それによって生み出される衣服を纏う側の解放をも視野に入れた仕事なのだった。

[…]婦人画報に入った、この時に考えたことは、けっしてドレス・デザイナーとしての作家になろうと思ったのではないのである。つまり、雑誌をとおしてのジャーナリズムの面から、衣服による生活改善のお手伝いをするのが、私の仕事ではないだろうか、と気がついたのである。


[…]


母や姉によって教えられた新しい女性に、しかも、自分一人だけでなく、できるだけ多くの人が新しい女性になるための、下づみの仕事こそ、私に最も適切な、最も性格にあう仕事ではないかと考えたのである。

本書のオリジナルは、平凡社の「人間の記録叢書」のひとつとして昭和31年に刊行された。当時の彼女は、数々の曲折を経てようやく、自らの描いた理想を実現すべく、独自の教育機関・桑沢デザイン研究所を立ち上げたばかりである。家族たちのエピソードや戦前の東京のありさま、戦争をはさんだ婦人服飾雑誌の周辺、戦後のファッションショーや市井の人びとの風俗など、この桑沢洋子の半生と仕事には、他にも興味深いさまざまが綴られている。締めくくりとして、当時ぞくぞくと日本にもたらされた海外モードの分析や、様変わりする日本人の生活スタイルに即した家庭着や労働着など、これからの衣服のあたらしい形について語られいるのは印象的だ。桑沢洋子はこのとき四十六歳、これからなすべき仕事を見据え、先へと進もうとしている職業人としてのありかたが、本ぜんたいから伝わってくるようである。


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