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『Tale for the Time Being』Ruth Ozeki(Canongate Books Ltd.)

Tale for the Time Being

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訳すと、『有(う)時(じ)物語』なんです。

 この本を読むまで、ルース・オゼキという作家の名は聞いたこともなかった。今春に上梓された本書は、デビュー作の“My year of Meats” (1998) 、“All Over Creation (2003)” に次ぐ長編3作目となるらしい。ベストセラーとなった(と後日知った)デビュー作は、日本でも翻訳・出版(アーティストハウス1999)されているが、ドサクサに紛れたままお蔵入りになっているのは残念だ。


 さて、映像作家として出発したオゼキが、小説を書き始めたのは40代になってからのようで、現在57歳のオゼキは、カナダとアメリカを往復する尼僧だという。二世であろうがハーフであろうが、西洋のZENと聞くと眉をひそめてしまうのは、当然、わたしの偏見である。薦められて読み始めたものの、本を開くなり、目に飛び込んできたのは、道元の『正法眼蔵』。眉に加えて口も歪め、癪に障りつつも気になるので調べてみると、表題にもあるTime Being は、道元説くところの有時(ウジ)なる概念の英訳らしい。

 やれやれと次のページを開いて目にしたのは、“Hi! My name is Nao, and I am a time being. Do you know what a time being is? ”。道元から中学生英語へのギャップに戸惑っていると、ナオはご丁寧にも有時の説明をしてくれる。しかも、中学生英語のままの平易さときている。いい気になって読み続けていると、AKIBAのFrench Maid CafeやらOTAKU、HENTAIなどが現われる。横文字になった日本はどうも勝手が違う。妙な居心地を感じながらも、抵抗し難い率直さと緊迫感を放つナオの呼びかけについつい応じていると、今度はルースの登場である。ナオの英語にすっかり油断していたら、急に英語が成人向きになって、風景も一変する。すると、またナオの出番となる。

 あれやこれやで気づいた頃には、偏見など打ち忘れて読書に没頭していた。“Zen”だろうが“Dogen”だろうが、いちいち頓着していられないほどに面白い。サスペンスあり、ユーモアあり、ドキュメンタリータッチあり、しかつめらしくない教養あり、自然描写あり、SFのようでもあり、満艦飾のエンターテイメントだ。しかも、娯楽小説としての高得点に加えて、世情への憂慮と著者の世界観をふんだんに盛り込んだ文学のひとつの在り方が、きっちり提示されている。

 主人公は二人の女性。ナオという日本の女子高校生と、ルースというカナダに住む作家。海岸に漂着したキティちゃんの弁当箱の中にあったナオの日記をルースが見つけることで、太平洋を挟んだナオとルースの関係が展開されていく。オゼキ自身、本書の核のひとつは、作家と読者の関係、恋愛にも似た関係にあると言っている。読み手のルースに、書き手のナオがパラサイトのように棲みついて、ルースの現実に大きな影響力を持っていくのだが、それと同期して、オゼキの書く“A Tale for the Time Being”に、読者は惹き寄せられていく。

 帰国子女のナオは酷いイジメに会い、メイドカフェで自殺をほのめかす日記を綴る。バブルのIT企業、リストラによる転落、就活する中高年、秋葉原カルチャー、サイバーいじめ、銭湯世情、ネット心中などなど、日本の世相が目白押しとなる。現代のみならず、戦中のKAMIKAZE、戦前の女性活動家まで登場する。日本にも長く滞在し(京都でホステスもしていたとか)、日本のテレビ局向けにドキュメンタリー番組を製作していたというオゼキの面目躍如たるところでもある。鴉の導きやら、Haruki の登場など、日本記紀から村上春樹にいたるまで、オゼキが知悉する日本文化があちらこちらに仕掛けられているのも微笑ましい。

 本書は、ブッカー賞にもノミネートされ(惜しくも受賞せず)、北米ではデビュー作“My year of Meats”を凌ぐ評価を得ている。“Meats”でも、日米の女性二人を連結する手法が使用されたが、二人は同じ時間を生き、時の経過とともに接近して距離を縮めていく、という明確な時間の矢を持っていた。ところが、本作では、ナオとルースは、一般的意味での同じ時空間を生きることはない。ルースの知るナオは、日記という過去のなかのナオで、しかも入れ子細工になった日記によって、物語は半世紀以上も過去の日本へと遡及する。“Meats”で活用されたFAXや電話は、本作ではサイバー空間に移譲されるが、同時に日記という古風な媒体が、捻れる座標軸を舞台に有効に機能している。

 2006年から執筆し始めたという本書は、2011年東日本大震災の後、出版寸前だった原稿をすべて白紙に戻して書き改められたと聞く。社会現象に敏感で、隠棲しきらない生活を選択しているオゼキらしい決断といえる。人物設定に七転八倒していたオゼキは、震災によって、ルース役を自らに引き受ける必然を感じたようだ。夫のオリバーすらも実名で登場しているが、愛猫のペスト(本名シュレディンガー)とともに良い味を出している。

 本書は、ハラハラ・ドキドキ・ワクワクさせる作品ではあるが、大真面目な作品でもある。まさに、冒頭に引用される『正法眼蔵』有時の巻を小説化する野心的試みでもあって、著者なりの説法ですらあると思う。その意味で、主役は時間と空間であって、つまりは存在を物語る大作なのだ。

 禅僧であるからには、単なる知的素材に終わらない禅を、作品の屋台骨にしているのだろうが、この大黒柱には量子力学が添えられている。夫オリバーが、専らその導入役を担っていて、フィクションの材料としては無理なく馴染む。ただし、禅と並べて量子力学の説明が巻末に付されるに至ると、今更ニューサイエンスでもあるまいし、と興醒めしないではない。まあ、それは西洋のZENのことだから、と忘れていた偏見を都合良く呼び起こして、楽しい読書は大団円を迎えたのだった。

 ところで、著者自身のサイトhttp://www.ruthozeki.com/では、本書の宣伝クリップを見ることができる。さすがに映像作家だけあって、渋い出来栄えだ。日本人には想像し難いルース/カナダ側の風景も堪能できる。オゼキの朗読も良い。付録のつもりで鑑賞して欲しい。


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