書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『The Bayeux Tapestry』Musset, Lucien /Rex, Richard (TRN)(Boydell & Brewer)

The Bayeux Tapestry

→紀伊國屋書店で購入

フランス・ノルマンディー北部の町、バイユーにある有名な作品。日本人研究者に人気のある題材と聞く。ノルマン人によるイングランド王戴冠の正当性を誇示する目的で製作された。作品自体はタペストリーというより、むしろ刺繍作品である。下絵は大陸人が書いたが、刺繍はイングランドの女性の手によるとされる。全体は幾つかのパートから成る。横幅70m、縦50cmの大きさを持ち、626人の人物、202頭の馬、犬55匹を含む505匹の動物、城砦37箇所、船41艘(専門筋にはこの描写が歴史的に最も貴重であるという)などが縫いこまれていると言えば、その規模と魅力の一端が伝わるだろうか。八色の刺繍糸の色彩は今も鮮やかで保存状態は素晴らしい。全体に中世初期スカンディナビアの非文字傾向文化の影響を受けており、刺繍上部に沿ってラテン語テキストが縫いこんである。テキスト自体は図柄と補完説明的な関係を持つ。本書はこの比類なき作品の、スカンディナビアに始まる歴史背景、図像と当時の事物・人物・建築との比較などを、大版で鮮明な図版と、明瞭な解説でまとめている(原著はフランス語)。

バイユーまで足を延ばせない向きは、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバートミュージアムにも類似した刺繍作品が展示されているので参照されたい。そこに見られるイングランドの刺繍技術はたいしたものだ。当時、刺繍製作は女性に許された数少ない工芸領域の一つであり、イングランドの女性の得意とするところであった。話が脱線するが、ケント州のノール館や、ロンドン郊外のハンプトン宮殿のグレイトホールなど、イングランドは木工にも優れたものが多い。しかし一般にはほとんど紹介されないばかりか、イギリス人もその良さを全く意識していない様子なのを不思議に思う。実際、関連する書物も極めて少ない。

閑話休題。ノルマン人はイングランド征服から程なくしてアラブ支配下にあったシチリアに侵攻する。この地でもバイユー作品と同じように政治的な示威の目的を意図したタペストリーの製作を指示する。それは「スルタンのマントのよう」(「イスラーム美術岩波書店)なイスラーム式の豪華な作品(ウィーン美術史美術館蔵)で、アラブ人(ラクダで表現される)に対するノルマン人(ライオンで表現される)の勝利を表現する豪快な図案を持つ。1130年にシチリアで行われた戴冠式においてロジェール二世が実際に着用した。

同じシチリアのモンレアーレの教会は、優美な列柱のあるクロイスターで知られる場所だが、側廊部をはじめとする教会内部はビザンチン様式のモザイクに彩られている(ギリシャ職人の直接の手によるものではなく、彼らに技術を教えられた現地人によって作成されたシチリアの作品は概して仕上がりの点で気品に劣るとも言われる(”Art of the Byzantine Era “Rice, David Talbot))。ビザンチン・モザイクの教会のなかに、イスラームのマントに包まれた王が鎮座する姿は、今日のヨーロッパ世界を想うとき、到底、想像の及ばない光景だろう。

(林 茂)


→紀伊國屋書店で購入