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プロの読み手による書評ブログ

『Landscape and Memory』Simon Schama(Harpercollins Pub.)

Landscape and Memory

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テームズ河口域は不思議な地域だ。たしかにロンドンは、その程良い外海からの距離に守られ、テームズ川の輸送力に支えられ発展した町であって、もしもこれが外海にその扉を曝した町であったなら、スペイン艦隊であれ、ジャンヌ・ダルク軍であれ、いとも容易く落とせる場所であっただろう。ここは島国であって、大陸側ではあまたの王が、その地勢に所有欲を掻き立てられているのだ。

いま、その河口付近には、工業用のクレーンが立ち並ぶ荒涼とした風景が広がっている。少なくとも、観光客が訪れたい場所でないことはたしかだ。著者サイモン・シャーマは、中学生時代をこの場所で過ごした。対岸に対峙するふたつの州ーケント州とサセックス州ーはクリケットーこの国一番人気のスポーツだーの最大のライバル同士であって、気質も違い、サセックス・ガールと言えば「酒飲み女」を意味するほどのつまらない土地、というのが決まり相場であって、一方のケント州は「イングランドの庭」とも呼ばれる所謂イギリスらしい田園風景が広がり、瀟洒な荘園が点在するイングランド南部らしい場所だ。私にはこうした本書のはじまりが、すでにして、たまらなく魅力的である。著者は、記憶の中のさまざまな風景をひとつひとつ丹念に拾い上げ、展開し、歴史と記憶の中に振動させていく。ポーランドリトアニアの国境地域にその家系のルーツを求め、民族の歴史と政治と野生動物(バイソン)が象徴する森を尋ねる。イングランドのニューフォレストの政治学を広げ、ヨセミテ桃源郷を発見する。

本書は相当に難解な文章で書かれており、高山宏氏の折角の和訳本(全訳ではない)で読まないのがそうした理由によるものか、自分でも分からないが、読み始めてしまったものは仕方がない。多分、以前この場所の書評でも取り上げたアクセル・ムンテの「サン・ミケーレ物語」のような、フィクションと研究書、歴史と記憶、を巧妙にブレンドした、こうした書物を偏愛しているためだろう。

本書の、見開き真ん中に、あの懐かしいリッチモンドヒルが現れるのは、ただの偶然である。J.M.W.ターナーが描いたこの絵は現在、テイト・ブリテン美術館にあり、ロンドン有数の風光明媚なリッチモンドの丘(と、そのテラスガーデン)をその素材としているが、この場所はわたしにとって、本書タイトル「風景と記憶」そのままの場所であって、自分自身の「記憶と風景」が著者サイモン・シャーマのそれとシンクロしていくという、個人的には過ぎないが、それでも稀有でスリリングな読書体験が得られたのは幸運とせねばならず、ゆえに振り絞るいい加減さで、最後まで読み進める甘美な苦難を味わったばかりだ。

(林 茂)

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