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『インドのヒンドゥーとムスリム』中里成章(山川出版社)

インドのヒンドゥーとムスリム

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 インドの経済成長が著しく、日本の経済界も遅ればせながら、インドに注目しはじめた。そのインドで心配なのが、宗教対立である。大規模な暴動や虐殺事件が続発し、多数の死者や難民の発生がたびたび報道されてきた。そんなインドと経済的な交流を深めて大丈夫なのだろうか。ここで思い出さなければならないのは、戦後共産主義化や強い反日感情のために失った東・東南アジアにかわって、日本が市場を求めたインドで、当時宗ナショナリズムがピークに達していたことだ。対立だけではない共生という融和的な考えがインドにあるから、戦後の日本は市場を求めることができた。そんなとき(1949年9月24日)に来日したのが、インド象インディラだった。ネール首相が、「象をください」という日本の子どもの手紙に応えたのだ。象は戦時中に処分され、戦後の上野動物園には1頭もいなかった。インドは、戦後の日本経済を救っただけでなく、日本の子どもたちの心も救ったことを、日本人は忘れてはならないだろう。


 著者、中里成章は「インドの二大宗教であるヒンドゥー教イスラーム教を取り上げ、両者の共生と対立の歴史を、共生に重点をおいてたどってみることにしたい」という。誤解を恐れず極端な話をすると、歴史家はどうにでも話をもっていくことができるストーリー・テラーだ。大切なのは、なぜいま歴史を語らなければならないのか、だれのため、なんのために語る必要があるのかを明確にすることだ。著者は、「対立」ではなく「共生」に重点をおいて語るという。宗教ナショナリズムが、「非常にデリケートでホットな現代の政治問題」であるだけに、表面的に流れがちな議論を、冷静に歴史的にたどっていこうというのである。インド社会の複雑さを熟知している著者だけに、「本書ではポイントを絞り込み、そのかわり、できるだけ丁寧に説明する方法」をとっている。これで、すこしはインドのことがわかるようになると期待して読みはじめたが、・・・。


 著者は、インドの複雑さを理解してもらうために、「文化の「サラダボール」」という比喩を用いて説明をはじめる。「サラダボール」の食材は「溶け合ってしまうわけではない」が、「混ぜ合わせるとそれなりにまとまった料理になる」。そのまとまりがなくなった歴史的起源を、つぎのように述べている。「一八五七年の大反乱(シパーヒーの反乱、・・・)や、ガンディーが指導した第一次非協力運動のときに、ヒンドゥームスリムが協力したことからわかるように、インドの宗教対立はそれほど古い歴史をもつものではない。十九世紀の末に、宗教がナショナリズムの政治と密接に結びついて以降、しだいに深刻化したにすぎないのである」。


 著者の目的は、「多様な個性が共存し、個が全体のなかで生かされる理想を、もう一度追求してみよう」というところにある。したがって、まず、「インドでヒンドゥームスリムの共生を可能にし、また、必要にしてきた条件を、歴史的条件と地理的条件とに分けて考察し、最後に共生のもっともわかりやすい例として習合の事例にふれる」という。インドでは、イスラームは数世紀もの長い時間をかけて、多様な径路を通じてすすんだため、ヒンドゥーイスラームが複雑に入り組んだ空間を形成することになった。そのため、「共生する以外に選択肢がないような、切っても切れない関係」が生まれ、「少数派が平穏に暮しをいとなんでいるかぎり、多数派は少数派を保護しなければならないという暗黙の了解が」成立した。入り組んだのは、人口分布だけではなかった。信仰や社会制度などでも、それぞれが影響し合い、入り組んで分離不可能な習合がおこった。「「住分け」は、十九世紀末以降の宗派暴動や分離独立を契機に強化されてきた」。


 その「住分け」の直接の契機となったのが、1857年の大反乱の敗北だった。「イギリスが無敵であることを思い知らされ」、「イギリス植民地支配を前提として、その枠内で再生の道を探」らざるをえず、宗教を指標とする排他的なナショナリズムが生まれた。そして、植民地政府が実施した国勢調査が、「多様で流動的な社会集団を、明確な「境界」をもつ社会集団に切り分け」、固定していった。初期の国勢調査では、「ムスリムバラモン」さえ存在していた共生社会が、しだいに「分離」され、やがて「対立」の構図が出現した。このように「十九世紀後半の宗教・社会改革運動のなかから生まれた宗教ナショナリズムは、植民地で<近代的な>政治制度のなかに根をおろし、二十世紀における成長の足場をかためた」。


 本書は、著者が「丁寧に説明」してくれているお蔭で、読んでいくうちにインドのことがすこしわかった気になる。すると、著者は「複雑」といって、そんなにインドは簡単にわかるものではない、としっぺ返しをして読者を突き放す。それは、西欧の近代的な論理やその比較からではわからないインドの歴史や文化、価値観を理解したうえで考えることを読者に求めているからだろう。最後の「結び」にあたる「宗教とナショナリズム」でも、「二十世紀のインドで展開するナショナリズムの政治を、どこまで説明できるのであろうか」と自問し、思想潮流の本質的な部分が「宗教ナショナリズムと別物である」と結論する。また、「インド・ナショナリズムの複雑で多面的な性格」をわかりやすく説明するために、「地域主義の問題」と「エリートと大衆の問題」をとりあげる。そして、「最後に、本書の冒頭で紹介したインド=「サラダボール」論」に戻って、「地域に根ざした政治と大衆の自律的な政治の世界に注目することによって、「サラダボール」的な共生の世界を回復する手がかりを見出すことはできないであろうか。現代のインドでは、そうした可能性を感じさせる動きもみえはじめているように思われる」と、結んでいる。


 結局、インドは「複雑」でわからない、ことがわかった。しかし、「排他的なナショナリズムから共和主義的で市民的なナショナリズムへ、頭を切り替え」、「多様な個性が共存し、個が全体になかで生かされる理想」を求めて、努力している人たちが歴史的にも現在もいることもわかった。そして、グローバル化する現在、インドに進出する日本の企業も不安に感じるだけでなく、その理想を実現するためにインド人とともに努力しなければならない。インドの「複雑」さは、ますます複雑になるであろうこれからの世界の縮図かもしれない。ならば、インドを理解することは、未来を展望することにつながる。

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