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『The Black Sea: A History』Charles King(Oxford University Press)

The Black Sea: A History

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スキタイの羊をご存知だろうか。バロメッツと呼ばれることもある。大地からすっくと伸びた幹に生る植物羊であって、羊であるからにはときどきメェーと鳴く。植物でもあるがゆえに、自ら移動することなど叶わず、草が周りになくなればすなわち餓死する運命。実在を疑う人もあろうが、そこは大プリニウスがいうように、海中には植物動物(珊瑚など)の類いも多いのに、どうして地上に植物羊がいてはいけないなどと言えようか。

西ヨーロッパからみれば、スキタイは世界の果ての地であり、竜のごとき怪物が住む僻地であった。そこは、ウォラギネの『黄金伝説』の舞台であって、聖ゲオルギウス(英名セント・ジョージ)が、竜に捕らえられた美しいお姫様を助け出す、ルネサンス期にポピュラーな絵画題材のモチーフを下敷く場所だ。数ある「聖ゲオルギウスとドラゴン」絵画の中では、ロンドン国立絵画館にあるパオロ・ウッチェロの小品も美しいが、何をおいてもイタリア、ヴェローナの聖アナスタシア教会で見ることができるピサネロの、剥落も激しい傑作フレスコ画を第一にあげなくてはならない。杉本秀太郎「ピサネロ装飾論」に要約するところによると、
カッパドキア出身の騎士ゲオルギウスが、リビュア(リビア)の町シレナに立ち寄ったとき、町は近くの湖に棲む龍のために困り果てていた。いけにえの羊(また羊だ!)を毎日あたえないと、龍は町の城壁に毒液を吹きつけて悪疫をはやらせるが、町に羊がとぼしくなったので、くじによって子どものうちから人身御供を選ぶにいたった。ある日、王の娘がくじを引き当ててしまう。王は拒むが、住民は承知しない。王女は婚礼の衣装を着て、龍の住む湖におもむく。たまたま聖ゲオルギウスが馬で通りがかり、王女から事の次第を聞くと、「キリストの御名において」姫を助けようという。長槍を振りかざし、龍を傷つけのち、姫にむかって「腰紐を解いて龍の首にかけなさい」と命じる。龍は至極おとなしく姫の手に引かれて町までついてきた。おそれおののく住民に聖ゲオルギウスは「キリストを信じて洗礼を受けるなら、龍を殺そう」という。云々。。。。

コンスタンティノープル(いまのイスタンブール)がビザンツ帝国の首都であったことの地勢を考えると、この海の重要さは自ずと知れようというものだ。エーゲ海黒海をつなぐボスフェラス海峡を唯一の出口とする黒海は、まさにかつて「トルコの湖」(本書P.98)であった。ギリシャオスマントルコジェノヴァブルガリア→ロシア→トルコ、など、時代につれて親方は変わるが、宗教においても人種においても調和を欠く地域であって、その点だけは変わりようがない。現代においても、世界の中でも極めつけの紛争地域のひとつであって、グルジア、トルコ、ロシア、ウクライナルーマニアブルガリア、といった国々に囲まれており、いまだ戦火の絶えることがない。まさにいまも、ロシア軍とグルジア軍が、アブハジア南オセチアをめぐって戦火を拡大させている。

余り知られていないのだが、グルジアはワインの一大生産国でもあって、主にその天敵ロシアで消費されている。両国の緊張関係から、2006年にロシアはグルジア・ワインの輸入を禁止したことがあったが、いつか連れていってもらった超穴場のワインバーの倉庫に、買い占められたグルジアワインがゴロゴロしていたのも合点がいった具合だ。次回冬季オリンピック開催地は、グルジア国境にも近い黒海沿岸の町ソチである。目下のロシア・グルジア国境の紛争地域(アブハジア自治共和国)からも近い。このようなエリアでオリンピックを開催できるあたりが、いまのロシア国家の勢いというものなのだろうか。オリンピック期間に因み、この多くの日本人に未知の地域を想像するのも悪くないだろう。フェルナン・ブローデルの名著「地中海」の黒海ヴァージョンであって、同書において紺碧の海とヴェネチアコートダジュールだけに留まらない地中海の豊穣な歴史を楽しんだ向きには、間違いなくお勧めの一冊となろう。

(林 茂)

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