書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ハンニバル・ライジング』トマス・ハリス(新潮社)

ハンニバル・ライジング

→紀伊國屋書店で購入

「人は肉を食べて生きる」


人食いレクターが誕生した経緯を明らかにした「ハンニバル・ライジング」を読むという経験は、『スター・ウォーズ』6部作を見終わった感慨と似ていると思った。

ハンニバル・レクターを主役にした一連の作品群『羊たちの沈黙』、『レッドドラゴン』、『ハンニバル』は強烈におもしろいというわけではないが、見逃すわけにはいかない、という思いに駆られる作品である。

この男、どこまで狂っているのか? どこまで走るのか? という興味。

スターウォーズ』のキャラクター、ダース・ベイダーと、「ハンニバル」シリーズのハンニバル・レクターというキャラクターは、そのような興味をかき立てる。

ベイダーは、オビワン・ケノービの剣によって四肢を切断された身障者になり、悪として完成する変身を遂げていく。

ハンニバルは、ミーシャという妹を犠牲にしたが、その代わりに、あらゆることに動じない堅牢な精神の宮殿を構築してしまった。その復讐のために使用した凶器は日本刀であり、間一髪でレクターの命を救うのも日本刀だった。

レクターの心身は健康そのものであり、ベイダーのように銀河帝国の皇帝にひざまずくようなことはしない。現代の単独者としてスーパーマンなのである。

作品の質は折り紙付きだ。映画は数年に一度は公開される。周囲と話題になる。こういうコンテンツはまったくすばらしい。

日本びいきの登場人物描写もよい。

 残された謎はある。

 なぜレクターは人殺しのときにその肉を食べるのか?

 食べることで、ミーシャを喪失した悲しみを乗り越えようとしてるという解釈もありかもしれないが、たいして面白くはない。

 読んでいるとき何度か「リアリティはないが、よしとしよう」という描写があった。

レクターは追跡者からの襲撃をするりとかわすのである。そのノウハウはいつ身に付けたのか? 軍隊経験者の襲撃をかわす素人って・・・・。訓練経験がないと、そんなことできない。単なる才能とか勘だけで殺人者からの襲撃から生き残ることなどできはしない。

よいフィクションとは読んでいるときに、そのような理性によるツッコミの余地を与えないものだ。

 この小説を読んでいて快感を覚えるのはなぜだろう。

 悪が悪としてたくましく生きているということ。

 その悪が冷静な単独犯であることだろう。

 人は人を殺し、食べる。それはニューギニア戦線を生き残った「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三が告発したことではある。

 奥崎謙三は市井の中に紛れ込んだ、無名の兵士、匿名の元上官を訪問し、人肉食をした責任を追及していく。

 奥崎は常軌を逸した行動力でその戦争犯罪を、ドキュメンタリー映画監督原一男とともに暴いていった。

 人肉食をなかったことにしたいという、元上官たちの気持ちを戦後日本社会は容認し、沈黙によってその戦争犯罪を隠蔽することをよしとした。

ハンニバル・レクターには、奥崎の身体にたぎっていたイデオロギーはない。

妹が食べられたとき、抵抗できなかった無力感から芽生えた復讐を、戦後、平和になったフランスを舞台にたんたんと始めるのである。

奥崎謙三は、原一男監督というドキュメンタリー映画監督を利用した復讐を企図した。それは、戦争を知っている人間には、思い出したくない過去との再会であり、戦争を知らない若者には、どす黒い笑いを誘うエンターテインメントになった。奥崎は映画と共犯になることで、社会性を獲得したのだ。

それゆえにすばらしい映画になった。客の目を意識する告発者にしかできないことがある。それを奥崎は十分に楽しんだ。

 「ハンニバル・ライジング」を読了したあと、「ゆきゆきて神軍」を思い出したとき、その映画の評価とは別に奥崎謙三は甘かった、と思った。

 本当に人肉食をした元上官に復讐したい、天誅したいのならば、誰にも知られることなく、殺害するべきだったのではないか。

 愛する人間が食べられたのならば、殺して食べるという復讐方法こそが、その復讐相手をもっとも戦慄させるということ。それをハンニバル・レクターは、自分一人で決断して行動している。そこにハンニバルの「怪物性」がある。

 殺人の歴史をたどれば、猟奇的な殺人は百科事典になるだけの分厚い事実の集積がある。 

 その大半の猟奇殺人の動機は不明。もっともらしい動機を、その時々のジャーナリズムがその情報商品を売るためにでっち上げることはできるだろうが、その「動機にまつわるストーリー商品」の賞味期限は短命である。謎は謎としてつかみ取って、その不気味さを賞味できる人間こそが、猟奇殺人情報商品のよき消費者になる。

ハンニバル・ライジング」では、ハンニバルがなぜ人肉を食べるのか? という動機はひとことも語られない。それはなぜか。作者、トマス・ハリスの想像力が世界的ベストセラーを連発するプレッシャーのために鈍ったのか。そうではないと思う。

人間は、論理の飛躍のなかで生きている、という人間観があるのではないかと想像する。

妹ミーシャが殺害され、食べられたとき、ハンニバルは記憶を喪失する。そのPTSD反応はあまりにも「普通」である。生まれながらの怪物ではないハンニバルは、その記憶喪失の期間に、脳のなかで、自分を侮辱する者に対しては食べることで処罰してよい、という飛躍の論理がはぐまれていったと、私は想像する。

躊躇しないで行動する人は恐ろしい。ましてや人肉を食することに躊躇わないなんて。

ところが、その行為に生存の道があるならば、人はつっこんでいく。

戦争で人肉を食べた世代は、敗戦の焼け跡のなかで、「金という資本主義の肉」を食べることで生き残りをかけた。

人は他者の「何か」を食べることで成長するのである。

さきに紹介した、新潮社の斎藤十一は俗情という肉を好んで食べていた。調理人は新潮社の社員。読者とともにスキャンダルという情報を食べる。なんという快感だろう。

あなたにとって「肉」とは何だろうか。その嗜好は語りにくいものなのか。

社会が容認する「肉」を選んだ人は幸運である。


→紀伊國屋書店で購入