『学校は死に場所じゃない』藤井誠二(ブックマン社)
「戦うことを教えられない者達はサディストの餌食になる」
この本は、ベストセラーマンガ『ライフ』(講談社・すえのぶけいこ著)に併走して書かれた。著者はノンフィクションライターの藤井誠二。前著『殺される側の論理』(講談社)に続いて、「いじめられた側の抵抗の論理」をマンガを使って構築しようとする試みである。
『学校は死に場所じゃない』を読み終えた後、すぐに『ライフ』(現時点では15巻まで発行)を取り寄せ読みおえた。
『ライフ』は、いじめに立ち向かう歩が主人公。愛海というサディストの同級生とその追随者との戦いがヴィヴィッドに描かれている。そのストーリー分析から藤井は現代社会のいじめを読み解こうとしている。
日本のいじめとはどういうものだろうか。
日本では個人プレイは許されない。独立した個人がひとりの人間を攻撃するようないじめはきわめて少ない。
多発するのは、集団による個人への集中的な攻撃である。そのとき集団内のメンバーにいる限り、責任は免責される。
目立ってはいけない。目立ったらいじめられる。いじめる者も目立ってはならない。あとで教師に責任を追及されるからだ。教師もまたいじめをなくすための努力を熱心にやってはいけない。問題が顕在化すると、責任を問われる教師が出てしまうからだ。親(とくに母親)はいじめをなくすために動くことはまずない。加害者を特定するとその親との関係が悪くなる。そうなれば母親のネットワークから総掛かりでいじめられる可能性がある。もし、いじめ自殺があったら、マスコミが取材にやってきて地域と学校が、社会的制裁のターゲットになってしまう。校長の責任になる。なんとしても、いじめ問題が起きないようにしてほしい。これは学校関係者すべての総意である。
このようないじめからから眼をそらす多重構造を見抜いた、一部のサディスティックな性癖をもった子ども(『ライフ』では、安西愛海)は、親と教師の監視をかいくぐっていじめを実行する。
生かさず、殺さず、いじめ抜く。自分は手を汚さず、女の子のもつ集団心理を巧みに利用して、集団で個を破壊するために企画を立案し、実行していく。愛海のような少女は、どの学校にもひとりくらいいるものだ。学校も社会の縮図である。
いじめと判断できないくらい優しく心をなぶる。これが、退屈きわまりない学校生活のなかの快感として体験されたとき、いじめの習慣化がはじまる。
『ライフ』を読むと、愛海は直感的に、コミュニケーションスキルのない同級生を支配するか、いじめることで、つまらない日常をやり過ごそうとしていることがわかる。
愛海は平凡な女の子の心理をよく知っている。
自分のために戦わない。いじめられている子をかばうために戦わない。
もし不用意に、いじめをなくすために戦うと危険なのだ。他の生徒から「いい子ぶるんじゃない」と総攻撃を受けて、自殺に追い込まれたという現実の生徒がいたことを、藤井は述べている。
教室内言説のネットイナゴ化が常態化しているようなのだ。
生徒のなかから、戦う、という発想が根こそぎ去勢されている。親も学校も、仲良くしなさい、というばかりで、危険な同級生とどう戦うかを教えない。いじめによる快感を知ったサディストにとって、教室はエンターテインメントの空間になるのにはこのような背景があるためだろう。無防備の子どものなかで王様になることは、楽しかろう。
歩は果敢にいじめと戦う。戦うほうは必死である。
『ライフ』を読んで、歩に同情して涙を流しても、カタルシスを感じても、現実のいじめはなくならないだろう。なくすための仕組みを大人がつくらないといじめは蔓延していく。
いじめをなくそうと、ヤンキー先生とか夜回り先生とか、エキセントリックな人たちが現れてはいるが、いじめの現場である校舎の中にまで入ってこない。
『ライフ』の中で歩は成長している。フィクションのなか、ではあるが。
いじめの現場にいる中高生は成長しているのだろうか。
学校で行きづらさを感じている生徒がいる。教室内に助けは来ない。マンガ『ライフ』という妄想をきっかけに、戦いを現実化できる、と信じることだ。希望はないが、無理矢理希望を作り上げることだ。