『新しい階級社会 新しい階級闘争』橋本健二(光文社)
「アンダークラスの怒りを鎮めることは可能か」
講演の仕事のために移動中の博多行きの新幹線で本書を読んでいた。その日に、佐世保で乱射事件が発生、翌日「犯人が自殺」という朝日の号外を読みながら浜松に戻った。
本書の後半では、格差社会で低所得者層に位置づけられるアンダークラスの若者たちが、犯罪という形でその怒りを暴発させ、自壊していく様子も表現されていたため、佐世保乱射事件とシンクロしながら読むことになってしまった。乱射事件では犯人が自殺。真相は藪の中だが、ストーカー的な動機によるものと新聞報道されている。読書と現実が模倣しあうような感覚。苦い読書体験である。
本書では、日本社会のなかで急速に格差が拡大し、フリーター、派遣労働者という非正規雇用労働者の階級---アンダークラス---に属する人たちが増えていることがデータによって示されている。ここまでは、格差社会を論じる類書と変わるところはない。本書の特徴は、格差があるかないか、という論争があるということそのものが、階級闘争の一形態であるということを明快にした点にある。さらに進んで、永山則夫をはじめとするアンダークラスを出自とする青年たちによる、連続射殺事件、通り魔殺人事件が発生する背景には、階級の問題が横たわっており、これらの凶悪事件は、階級闘争がゆがんだ形で噴出したもの、という考えが示されていた。
ソ連が崩壊したことをうけて、マルクスは死んだ---階級闘争や搾取という概念は死んだ---と、その方面に無知の私は考えていたのだが・・・それは誤りでした。すみません。というのは、日本で階級闘争なんか見たこと無いぞ、と思っていたからに他ならない。階級闘争によって政権が転覆されるなんて想像もできない国に生きていると思っていたからだ。
著者の橋本は、日本における階級闘争の特色をこう表現する。
「日本の労働者階級は、もともと自民党支持率のみならず民主党支持率も低く、政治への参加は少なく、むしろ政治には無関心なのである。そして、非正規労働者からなるアンダークラスはどうか。アンダークラスは労働組合にも組織されていないし、その利害はどの政党にも代表されていない。総じていえば、日本には下層階級の利害を代表する政党が存在しないのである」
したがって、日本のアンダークラスは「ただ搾取されるだけ」とも言える。だが、その反撃としての階級闘争は、組織化されないまま、「暴発、誤爆、自爆」していると橋本は述べる。1968年、日本を震撼させた連続射殺事件の犯人として逮捕された永山則夫について次のような記述がある。
「獄中で(中略)マルクスをはじめとする思想書を読みふけり、自分の犯行の原因は貧困を生む資本主義にあると主張するようになる。この点だけを見れば、卑劣な責任転嫁のようでもある。しかし同時に、彼は犯行に対する深い反省をも口にしている。ただしそれは、一般的に人を殺したことに対するものではない。『殺す相手を間違ったということ』『労働者を殺した,味方を殺したということ』に対する反省である」
日本において、正規雇用からはじき出されたアンダークラスが政治的に力をもつことなかった。その利益を代表する政治勢力もない。社会からの理解もないに等しい。希望がない期間が長期化すると人は絶望、自爆していく。
アンダークラスの一人が「自爆」した思われる事件を橋本は、東京地裁判決から引用する。
「被告人は、高校進学後、両親の借金のため生活が苦しくなったことから高校を中途退学し、アルバイトに専念していたが、借金苦から被告人を残して両親が失踪したため、独力で生計をたてざるを得ない境遇に追い込まれた・・・が、もともと大学へ進学して将来は事務系の仕事に就きたいと考えていた被告人にとって、そのような生活は満たされたものとはいえず、自分の努力が正当にされていないと感じて不満を抱き続け、転職を繰り返していたのであって、その不遇な境遇に照らし、不満を抱くに至った経緯に同情の余地がないわけではない。また、被告人は・・・努力しない者から無言電話をかけられたと思って腹を立て、これを契機として世の中が自分を正当に評価しないというかねてから抱いていた不満を享楽的と感じていた人々への反発心を募らせたものであり、その生い立ちや境遇を考えると、このような気持ちを抱くに至った被告人を一概に非難し得るものではない」
(1999年に発生した池袋通り魔事件。犯人の造田博は1975年生まれ、2人の女性を刺殺、6人に重軽傷を負わせた。判決は死刑)
出口のない経済的貧困と、自己疎外が長期化することで、人は正気を失っていく。通り魔殺人犯人を裁く司法は、ときに優れた社会批評を書くのである。
大阪で小学校に乱入、学童を無差別に死傷させた宅間守は、その犯行があまりにも衝撃的かつ法廷での言動があまりにも酷すぎたために注目された。宅間ほど過剰に饒舌な者は希だろうが、社会へのルサンチマンを溜め込んでいるアンダークラスは増え続けているのは確かなことのだろう。いくらまじめに働いても報われないのだから。
橋本は、現代社会のなかで、永山則夫や宅間守のような者たちが出てくるのは、階級闘争の初期段階では必然だという。
ひとつの会社が、経済的には奴隷のような待遇のアンダークラスと、年収1000万円以上の高額所得者を抱え込む。
同じ日本人なのに!
同じような学歴なのに!
同じ出身地なのに!
同じような能力なのに!
同じような容姿なのに!
なぜあいつらは高給で、なぜ私は貧困なのか!
この感情は階級闘争の発火点になりうる。
「永山則夫は1949年の団塊世代、アンダークラスの多くは団塊ジュニア世代である。しかし永山と現代のアンダークラスの若者たちには、ひとつの違いがある。永山は獄中でようやく本当の敵の存在に気付いたのだが、その『子どもたち』には、初めから敵がみえてるのである」
敵とはアンダークラスを搾取する階級であり、それを見殺しにする政治的に無関心な普通の労働者階級のことだ。
読後感は苦いままである。
―追記―
永山則夫は顔にヤケド痕のある男だった。永山は、周囲が自分を「ヤクザと疑っている」と思いこんでいたという。
私の知っているユニークフェイス当事者たちは、「自分を劣った者」と思いこんでいる。外見資本主義が浸透する日本社会のなかで、きわめて生きづらい階層である。「外見のアンダークラス」ともいえる。私はいまアンダークラスにはいない。それは、早くから知的に武装しないと周囲につぶされる、と気付くことができたためだろうし、努力が報われる環境と友人に恵まれただけだったと思う。本書によって、私も階級闘争をしてきた、という気づきがあった。